登場人物・用語解説

アマリラ…カフェの名前。

京野修治…ウェイター。アンジェラカヲリのファン。一人称は「僕」。

小湊由美…カフェの店長。

佐倉香織…アイドル声優。芸名は「アンジェラカヲリ」。スターライト・エンタープライズ所属。

入沢健…離婚した京野の父親の第二子。X-records所属の歌手。佐倉の同期。

李有礼…スターライト・エンタープライズ所長。

小松崎夜斗(ないと)…スターライト・エンタープライズ所属の若手声優。

マルクロード高橋…X-recordsの所長。

クロすけ…猫

スターライト・エンタープライズ

下祗園

六角荘…京野と小松崎の住むシェアハウス。


[chapter:1 一回目のエイプリル・フール]

“アンジェラさん”は、いつも優しい。

 どんな人にも笑顔で対応するし、分かりやすい言葉で、落ち着いた口調で話す。

 服装も華美でなく、落ち着いていて、誰の目にも優しい色だ。

 困っている人がいればそっと手助けしたり、悲しんでいる人がいれば慰めることだってする。

 僕の働いているカフェ「アマリラ」は、とあるレコーディングスタジオの1階にある。4階建てのビルで、ほかにもタイ料理店やバレエ教室、声優事務所「スターライト・エンタープライズ」なんかが入っている。カフェの常連には、有名な声優もいるのだ。読み合わせをしたり、朝食を食べたり、休憩所代わりにしていたりしている。アンジェラさんもその一人だ。彼女はその名前で活動している。本名は知らない。一介のウェイターである僕が、知る筈もない。

「京野さん」

 彼女の透き通った美しい声が僕の名を呼んだ。それだけで、脳天を駆け抜けるような快感を感じた。ラジオ越しなんかより、ずっと素敵だ。

「ホットコーヒー、おかわりお願いしていいですか」

「分かりました」

「ありがとうございます」

「えー、じゃケッコンする気ないのー」

 きょうも、近所の子供の相手をしてあげていた。

 アンジェラさんは、子供のファンたちにも真摯に対応するのだ。だが子供の、容赦のない質問に、いつもとても戸惑っている。

 ――けど、彼女にだってきっと、ああいう時期がきっとあったのだろう。僕にもあったように。その時期の彼女を知らないのが、とても悔しい――いや、やめよう。これじゃあ、ストーカーだ。僕は決してストーカーではない。確かに彼女のいる事務所が近いから、このカフェで仕事をしているけど――

「ファンのみんなが大好きだし、作品が子供みたいなものだからねえ」

 彼女にコーヒーを持って行くと、女の子が言った。

「ね、京野さんは? イケメンだし、気が利くし、年も近いでしょ」

「へっ?」急に僕の名前が挙がり、まんざらでもなかったので、ドキリとしてしまった。

「ね、京野さん、アンジェラちゃんとケッコンする?」

「え――ええ、そうなったらとても嬉しいですけど…。」

「まぁ、そんな…。京野さんみたいな方は、とても私なんかじゃ…」

 出た――大人の「茶番」。

 だけど、大人は、相手を傷つけてはならない。

 もしかしたら、アンジェラさんは、同性愛者かもしれないし、何か大きな欠陥があるのかもしれない。

 だけど、それを受け入れてくれる人ばかりではない。だから、そのことに触れず、なおかつ相手を立てるために、「大人」は優しい振りをする。

 そして、社会は、平和を保っているのだ。

「するの、しないの、どっちなの?」

「オトナってどうしていつも、言葉を濁すんですかね」

「オトナだからだろ」

 子供たちが口々に言う。

 思いやりを、持っているからだよ――。

 子供は、みんな弱者だし、差と言っても大差はないから、まだ本音で語り合える。

 しかし大人になるにつれ、格差が増し、同じように話すだけで相手を傷つけたり、傷ついたりしていくことになるのだ――。

「あ、そだ、アンジェラちゃんの本名って何ていうの? あたしは坂井典子!」

「僕は高橋孝太郎です」

「あたしは中村利奈だよ。おねえさんは?」

「んー、内緒」

「えーなんでー! みんな自己紹介したのにー」

「名乗らないなんて失礼だー」

「じゃあ…耳貸して」

 アンジェラさんが、子供たちの耳元でじぶんの名前をささやく。

「えっ!? 龍之介…!?」

 内緒話にした甲斐なく、女の子が大声で叫んだ。

「まさか…アンジェラちゃんって…」

「元男…!?」

「ああ、そうなんだ…。みんなには内緒にしてくれよ…」

「そっか…なんか悪かったな、無理矢理聞いたりして」

「うん、あたし達ぜったい、言わないから!」

「大丈夫ですよ!」

 アンジェラさんが元男だろうと、僕は大丈夫だ。この感情に偽りはない。

「ありがとう…」

 と、そこまで神妙にしていたアンジェラさんの声が、とたんに明るくなった。

「なーんてね! ウソだよ! 今日は何の日か知ってる?」

「え? あっ!」

 エイプリル・フールかぁ~!

 子供たちが口をそろえて叫んだ。

「エイプリル・フールでした~!」

「だ、騙されたぁ~」

「もう、アンジェラちゃんは人が悪いなぁ~」

 皆が笑っていると、近くの教会から6時を告げる鐘が鳴った。

「あっ大変だ、もう6時だよ」

「あっやば、田中さんに怒られる。みんな行こ!」

「5名で1642円です」

「じゃーね、アンジェラちゃん! 今夜のゲキレンジャーも観るからね~!」

「ありがと~」

 騒がしい子供たちが居なくなると、店内はしんと静かになった。午後6時にこれだけ人が少ないのも、この喫茶店のケーキがあまり美味しくないことが理由なのだが…。

 僕とアンジェラさんはふと目を合わせ、「やれやれ」といった顔をお互いに示した。

「私も、お会計、お願いします」

「コーヒー2杯で、650円です」

 彼女はお金を千円札で支払って、僕はいつものようにお釣りを手渡した。

「ありがとうございました」

 僕が言ったその時、彼女が何か言った。

「――です」

「――え?」

「私の名前――"佐倉香織"です。いつも、『京野さん』って呼んでいるのに、なんだか不公平だから…」

「――あ、そんな、気になさらなくて、いいのに。あっ、僕は…京野修治と言います…ってどうでも良かったですね」

「――こちらこそ――忘れて下さいね」

「すてきなお名前ですね…香織さん…」

「修治さんも…美しい響きです」

 アンジェラさん――"香織"さんは、悪戯っぽく微笑んでから、店を後にした。

 ――いつもは、あんな風に笑わないのに。

 もしかして、今日が、エイプリル・フールだから…?

「香織――さん」

 名前を呟いただけで、胸が締めつけられる。彼女が居るだけで、それだけで僕の心は――全てを忘れてしまう。けど、僕はただのウェイターだ。この恋は、きっと叶うわけない。それでも、きょうは、エイプリル・フールだから。少しくらい、ばかになっても、いいよな…?[newpage]


[chapter:2 梅雨の憧れ]

 私の好きな人は、彼氏じゃない。元々そこまで好きではなかったけれど、腐れ縁で付き合い始めたのだ。”演技の参考になるかも”――そんな邪な想いもあったかも知れない。もちろん、本人には内緒だ。それから、ファンにも内緒だ。社長には、「一応、ファンには秘密にしてね。アイドル声優なんだし」と言われているし、そろそろ、別れを切り出したい。デビューした時に別れればよかったのだが、タイミングを逃してしまって、切り出せずにいる。

 京野修治さんは、下祗園のレコーディングスタジオ(ちなみに、このビルのオーナーと私の所属している事務所の社長は同じ)の地階のカフェ、「アマリラ」のウェイター。普段何をしている人なのか、彼女が居るのか、何も知らない。そもそも、フルネームだって、ついこの間知ったんだもの。

 けど私は、例え私に彼氏がいなかったとしても、行動に出るつもりはないの。だって私は”声優”だから。声優って、どうしても、世間からズレたイメージがある。オタクっぽいし、ジメジメしてて、引き籠ってるイメージ。ファンも変人ばっかりだったり(実際は、そんな事ないんだけど)。だから、いいの。私なんか、お呼びじゃないと思うし、絶対、ステキな彼女がもういるし。

「アンジェラちゃん、お誕生日おめでと~!」

 客席から歓声が沸く。今日はライブだ。私の誕生日にあわせて、毎年集まってくれる。今はそんな皆のために、心を込めて歌おう。私の恋人は、このファンたちだ。それでいい。

 楽屋には、沢山のプレゼントが届いていた。中にはとても高価な宝石などもあって、こんな高価なものをプレゼントできるような人も、好きでいてくれているという事がうれしかった。

 みんな、本当にありがとう。私はみんなのために、頑張るね。

 一人でプレッシャーを抱えるのが、辛くないと言えば嘘になる。もし、疲れたら――また、コーヒーを飲みに行こう。あの人になら、少しくらい甘えても大丈夫かも知れない。だって、いつも優しいから――。今日は、まだやっているかしら。誕生日だから――ひと目、会っておきたいなって思ったの。

 アマリラに入ると、驚いたことに、[[rb:健 > たける]]――私の彼氏がいた。どうして…? 私、このカフェのこと、何か話したっけ…? 注文を待つ間、トイレで待っていると、案の定、健も入ってきた。

「よっ」

「ど、どうしてここに…? お兄さんに会うって言ってたじゃない」

「ああ、ここは兄キが働いてる店だ」

「えっ!? それってまさか…」

「あの眼鏡の地味な奴だよ」

 どうやら京野さんが、健の腹違いのお兄さんらしい。共通の知り合いをきっかけに、最近やっと、連絡が取れたそうだ。言われてみれば、キリッとした顔立ちは似ている。

「お前こそ、ライブはどうした?」

「もう、終わったわ。ここのコーヒーは美味しいから…」

「そうか? さっきケーキ食ったけどゲロマズだったぜ」

「コーヒーはおいしいのよ」

「そんな事言って、まさか兄貴に惚れてんじゃねえだろうな?」

「まさか…」

 彼が無理矢理キスして来たので、私はされるがままに受けていた。待って、カギをかけてない――そう思った時ドアが開き、あろうことか京野さんが、モップを持って入って来た。

「あっ…し、失礼しました…じゃなくって、お客様。この店でそのようなことはお控え下さい。それと、もう閉店時間です」

「カタい事言うなよ、愛しの我がブラザー」

「駄目なものは駄目です」

 ――ああ、よりによって、京野さんにこんな所を見られるなんて。だけど、これでいい。無闇に争いは、生みたくないもの。

 閉店後。私は裏口で、京野さんが出てくるのを待った。ひとつ、言わなければならないことがあるから。黒猫がニャア、と私の足もとにやって来た。

「あら、クロすけじゃない。ここでもご飯をもらっているの?」

 彼(彼女かも)はこの町の野良猫。優しい人たちに食べさせてもらっているようだ。猫が住める町は、きっと平和だ。

 私はかがんで、クロすけと目を合わせた。それは近づいてきて、尻尾をピンと立てた。触れようとしたら、急に二足立ちしたので、びっくりしてよろけてしまう。それを京野さんが受け止めた。肘から、温かい手のぬくもりが伝わってきた。

「ご、ごめんなさい」

「クロすけですね」

「あなたも、クロすけって呼んでるんですか?」

「オーナーがそう呼んでました。…あの、何か忘れ物でも?」

「そうじゃないんです。あなたにひとつお願いがあって…2、3分、お時間ありますか?」

「あら修治、なーにその子、彼女?」

 ドアから女性が出てきてからかう。髪の長い、大人っぽい人だ。

「ち、違いますよ。」

「良いわよねーイケメンはさー彼女作り放題で」

「…あの、歩きながらのお話でもいいですか?」

「はい」

 私たちは、深夜11時を回った下祗園の町を歩いた。

「今日は降らなくて良かったですね」

「ええ、予報では降るって言ってましたけど」

「明日は晴れだとか」

「そのまま晴れが続くといいですね」

「そうですね」

 6月ではあるけれど、梅雨の合間であるからか、さすがに肌寒いな。そう思っていると、ポツリ、と雨が降り出す。慌てて傘を出そうとしたが、傘を忘れてしまった事に気付いた。

「あっ、どうしよう、傘が…」

「…僕ので良ければ、入りますか?」

「すみません…!」

 今日はツイてない。連日のリハーサルで、疲れているのかな。

「私、お邪魔だったんじゃないですか?」

「えっ?」

「さっきの方と一緒に帰られる予定だったのではないですか?」

「いやいや、大丈夫ですよ」

「すみません、京野さんっていつもお優しいから、困らせていないか心配で…」

「僕って、そんなに小心者に見えます?」

「そういうつもりじゃ…ごめんなさい」

「かまいませんよ。それで、お願いとは…」

「大したことではないのですが…弟さんと私の関係、内緒にしておいて欲しいんです。私、芸能関係の仕事をしているので――」

「ああ、そんな事ですか。お安い御用ですよ。」

「良かった、ありがとうございます。では私はこれで…」

「あっ、ちょっと待って下さい」

 京野さんは立ち止まると、私に紙袋を差し出した。

「前オーナーに聞いたんですけど、誕生日って6月ですよね? これ、僕が作ったケーキなのですが、良かったら」

「えっ、そんな、悪いです」

「いや、もらって下さい。作りすぎちゃったので。味は悪くないと思いますよ」

「ありがとうございます…」

「タクシー乗り場まで送りますよ」

「いえ、彼が車で待ってるので」

「では、そこまで送りましょう」

「ありがとうございます」

 高価なプレゼントも嬉しい。元気をくれるから。

 だけど、京野さんからのプレゼントは…甘くて、柔らかくて、あったかくなって、とても幸せになる。

「なんだか本当にお兄さんみたい」

「…やっぱり、健君の方がいいですか?」

「えっ?」

「あ、いえ、弟は幸せ者だな~って」

「…ありがとうございます」

 ああ、どうか永遠にこのままで居られますように…。あわよくば、私の義理のお兄さんになってもらえたら、すごく嬉しいな、なんて、さっきまで、あんなに別れようと思っていたのに、私もひどい女だわ。[newpage]


[chapter:3 クリスマス、本当に?]

 小さい頃から、要領だけは良かった。

 見た目もかなり可愛いし、話術もあった。何よりみんなが頼りにしてくれたって言うのは、あるかも知れない。だから昔から何でも任されてきたし、一人で全部こなしてきた。

 叔父の店を継いで、もう4年になる。いや、まだ4年にしかなっていない。経営は既に赤字で、現実の厳しさを思い知らされている所だ。

 だからだろうか。今まで男なんか全然興味なかったのに、最近なんだかすごく恋しい。

 京野修治とは、幼稚園からの付き合いだ。私のほうが2年上。家が近くて、私のワガママに付き合ってくれる優しい人が彼くらいしかいなかったから、そのままずっと付き合いを続けてる。私がカフェを始めた時も、ウェイターのバイトを引き受けてくれてる。朝早くから夜遅くまで、本当に助かってる。

 好き、だと思う。だけど同時に怖くもあった。全てを見透かされそうなほど、アイツは聡明だったから。だからあたしの気持ちにもとっくに気付いてると思う。それでも何もしてこないのは――きっと――そういう事。

「えっ、いま何て…」

「だから、クビだって言ったの。もうお給料払えないから」

 ある昼下がりに、ついに私は京野に言った。

「この店、一人じゃ回せませんよ」

「契約期間まではやる。そしたらもう畳むわ」

「なら、それまでは居ます」

「もう払えないって言ってるでしょ。明日からは一人で接客するから。ちなみにタダ働きさせるとあたしが捕まるからね」

「…分かりました」

「これ作ったのお前?」

 翌日はクリスマスイブだった。思い上がった男に早速クレームを付けられた。

「金返せよ」

 あたしのケーキ、そんなに不味いの? 叔父さんだって美味しいって言ってくれた。パパだってママだって、みんな美味しいって言ってくれたわ。

「アンタの舌がおかしいんじゃないの?」

「こんなマズいモン出しといてよく言えるな。こんな店とっとと畳んで田舎に帰れよ」

 頭にきて、皿を何枚も割った。

 ほんとは、分かってる。

 あたしはあたしが考えてるよりダメな人間みたい。やっと分かったの。私の周りのみんな、嘘つきだったんだって。私はただ、騙されてただけなんだって。私の人生って、一体何だったんだろ。なんで私だけ、こんな辛い思いをしなきゃいけないの…?

「ニャア」クロすけが窓越しに話しかけてくる。

「近づいちゃダメよ。危ないから」

 猫はいいな。あんなにわがままなのに、ただ可愛いってだけで人間に可愛がってもらえる。あたしも、猫くらい可愛かったらよかったのに。

「あのー…大丈夫ですか?」

 お皿を片付けていた手を止めて見上げると、京野ではない、見知らぬ青年が立っていた。

「邪魔なんだけど」

「手伝います」

 そう言って彼は素手で、割れた皿を掴み始めた。

「ちょっと、お客さんにそんな事させられないわ」

「ほんの少しだけですから」

 ほかの客は、知らんぷりだ。と言っても、3組しかいないが。

「…なんで手伝うのよ」

「だって…泣いてるから…」

 あたしは息をのんだ。あたしには、優しいってどういうことか分からない。助けてくれる人なんかいなかった。いつもあたしが頼られてた。小さい頃から料理だって作ってた。助けることも、助けられることも、よく分からない…。

 だけどこのとき、京野といるときみたいな、ほっとする気持ちになった。思わず、愚痴りたくなる。黙ってることができない性分なのよ。

「あーあ、クリスマスだって言うのにホント何やってんだろ。お金はないし、ケーキも作れないし、彼氏もできないし」

「彼氏、居ないんですか。良かったら僕なりましょうか」

「えっ?」

「冗談ですよ。すみません、不謹慎でした…」

 そいつはきまりの悪そうな顔をしてうつむいた。

 冗談…? ヘンなヤツ。

 なんかもう、クリスマスも、店もどうでも良くなってきちゃった。 [newpage]


[chapter:4 義理で隠して]

「同居してんのか!?」

「そうだよー。一緒にお風呂入ったりもするもんねー♪」

「たまにですよ」

「そ、そんな…犯罪だろ?」

「犯罪じゃないよ? だってボク、男だもん」

「えっ、男!? このチビがか!?」

 健と呼ばれた人が、驚いている。このビルのオーナー、[[rb:李 > り]] [[rb:有礼 > ありのり]]は、少女のように見えるが立派な成人男性で、声優事務所以外にも、不動産斡旋やカウンセリング業など様々な企業を経営しており、ちなみに僕と京野の同居人でもある。

「言っとくけど、僕、チビじゃないよ。君の背が高すぎるだけだろう。それに、チビにチビって言ったらダメだよ」

「男ならなんでメイド服なんか着てんだ」

「かわいーから❤ 似合ってるでしょ?」

「・・・・・・・・・まぁ・・・・・。」

「できたわ! 今度こそ美味しいはず!」

 僕らがスカートを持ってヒラヒラクルクルと回る李さんを見ていると、小湊さんが、大きなガトーショコラを持ってきて、ドンと僕の目の前に置いた。

「食べて」

 今日は、「アマリラ」の定休日なのだが、小湊さんに呼ばれた。京野もいて、ニコニコと笑っていた。どうやら今日は「店長オペラ品評会」らしい。ちなみにオペラというのは、チョコレートを使ったケーキのことだ。

「いや、こんなに食べられないです」

「食えよ」

「いえホント、こういうために手伝ったワケではないので」

「ヒトが泣いてるトコ見てタダで帰れると思うなよ」

「これ刑罰の類いですか!?」

 恐る恐るひと口食べた僕に、すかさず小湊さんが感想を求めてくる。

「どう? 美味しい?」

 この期待を込めた眼差しに、つい人は嘘を吐いてしまうのだろう。

「苦っ」

「何だと!? あたしのオペラが食えねえって言うのか!」

「す、すみません!」

 怒るなら、品評会の意味がないじゃないか…。

「由美さん、しばらくは僕がケーキを作りますよ。その間に、また勉強し直したらいいじゃないですか」

「なんで店長のあたしよりウェイターのアンタの方が上手いわけ…」

「今きっと調子が悪いだけですって。叔父さんからせっかく受け継いだお店なんですから、もう少し頑張ってみましょうよ」

「とか言って常連の女の子狙いだろ」

「え!? や、やだなあもう…」

 すると、教会から6時を知らせる鐘が鳴った。稽古の時間だ。

「あ、そろそろ帰らないと」

「え? 彼女いないくせにいやに早いわね。観たいテレビでもあんの?」

「明日、収録なんですよ」

「収録? アンタ、テレビ局の人?」

「声優です。地下にスタジオあるじゃないですか」

「彼、いつも家で遅くまで練習してますよ」

 僕は声優としてはまだまだ駆け出しで、いつもみんなの足を引っ張っている。だから、少しでも頑張らないといけないんだ。

 他に小湊さんの作ったガトーショコラ(オペラ?)を少し包んでもらって(って、小湊さんが勝手に包んでただけだけど)、僕はカフェを後にした。ほんのりとした心地よさに、後ろ髪を引かれる。袋の中のケーキの箱を一瞥し、クリスマスの夜のことを思い出した。

 ――僕なら、きっと諦めるだろう。

 下手とか、面と向かって言われたら、分かってはいてもやっぱり落ち込むし、きっと二度と立ち直れない。言う方にとっては何て事なくても、言われた方にとってはたまらないのだ。

 だから、何を言われても堂々と怒れる彼女を見ていると、ちょっと尊敬するし、心を締めつけている焦りとか不安が少しなくなって、ラクになれるんだ。そして気が付いたら、彼女を手伝ってた。

 (ケーキを食べる時間くらいは、サボってもいいかな。)

 にやつきながら外に出ると、佐倉先輩が、カフェの外で待っていた。俺と目が合うと、ばつが悪そうな顔をする。

 誰か待ってるのかな?

「先輩…何してるんですか?」

「あっ、あの…京野さん、いる?」

「いますよ。呼んできましょうか?」

「いっいやっ、い、いいの、いるかどうか聞いただけっ」

 なんだか、いつもの余裕のある先輩とは様子が違う。そもそもこんな所でつっ立ってたら、ファンの誰かに見つかるんじゃないだろうか?

 京野に用があるのなら、何もこんな所で待たなくても…人に聞かれたくないことなのかな?

 そこではたと思いだした。今日がバレンタインデーだということを。

 そう言えば、今年は佐倉先輩がチョコを配っているところを見ていない。配るのをやめたのかと思ったけど…。

 俺は帰るふりをして、少しだけ近くの建物の影で様子を伺うことにした。決して先輩のプライベートを覗き見しようとか、興味津々とか、そんなことはない。一切ない。

 京野が出てきた。外に先輩がいることに気付いたのだろう。

 何か話している。先輩はやはり様子がおかしい。出すか? いや、やはり考えすぎ――ほら、出した!

「みんなに配ってるの」なんて、大きな声で言っているのも聞こえてくる。

 ――配ってない。彼女にとって、渡すのは一人だけだ。それを知ってるのは、彼女一人だけ。彼女一人のなかで、バレンタインを遂行しているんだ。

 いや、一人だけではないかも? もしかしたら俺だけが渡されていないという可能性も…でも、先輩のあんな真剣な顔、初めて見た。

「良いなぁ…」

 もう、覗き見はやめよう。それで、後で京野に感想でも聞こうかな?

 恋は人を嘘つきにさせるって言うけど…天使も堕としてしまうとは、京野修治、恐るべし…。

 そこではっと気づく。

「待てよ、バレンタインって…」

――好きな人に、チョコレートを贈る日。

 自分の持っている袋を見る。

「…まさか、ね」

熱に浮かされながら、ふらふらと岐路に着く。今更意識しても、その真意はもう分からないのだった…。

 [newpage]


[chapter:5 季節、めぐりて]

「最近、つけられてる気がするんです」

 相談がある、と言われ、閉店後にカフェのスタッフで佐倉さんの話を聞いていた。小湊さんと、なぜか同席している小松崎が、ちらりと僕を見た。「僕じゃない!」と、ジェスチャーで伝える。確かに僕は佐倉さんの使っているヘアマニキュアの種類まで知っているが、それはストーキングから得た情報ではない。公式の情報なのだ。もちろん家だって知らない。方角なら、いや、番地まではさすがに分からない。きっとおしゃれなマンションなんだろう、とか想像するだけで我慢している。これがどれだけ忍耐の要ることか。もしストーカーがいるのなら、ファンの矜持を思い知らせてやらねばなるまい。表立っては温和に笑いながら、サイフォンを持つ手に力が入った。

「それは大変だ」

「商売敵の可能性もあるんだよね」

 李さんが言った。

「先輩は入沢さんに『X-records(エックスレコーズ)』に誘われてるんだ」

 話によると、スターライト・エンタープライズとX-recordsはちょうと仕事を取り合う関係にあるらしい。”スタライ”はファンを大切にする事務所、X-recordsは売り上げを大切にする事務所。方向性の違いからアンジェラさんはずっと断っているらしいのだが、最近いよいよ嫌がらせじみてきているという。

「僕が弟に言っておいてあげましょうか?」

「助かります。あと…」

「はい?」

 言いにくそうに口をつぐむ彼女に、僕は心配になって急かしてしまう。

「その。…入沢さんからしばらく、私を匿ってもらえませんか?」


「…どうしてこうなった」

 僕らのシェアハウス、六角荘。

 いつもは僕、小松崎、そしてたまにオーナーの李さんの三人で囲むテーブルに、場違いな天使が一人いる。薄汚いボロ家が、急に教会に変わってしまったかのようだ。ここを聖域に認定しなくては。

「まぁ、こんなにたくさんいただいて、良いんですか?」

「もちろんです。女性のお口に合うか分かりませんが…」

 そう言って僕は野菜炒めを取り分ける。

 もちろん、佐倉さんがここを選んだのは、李さんが所有する物件だからである。それ以上の他意はない。頼られたなんて思ってはならない。絶対に。それでも、どうしてもいつもの10倍は気を張ってしまう。緊張と、周囲への警戒と、あと、佐倉さんのポスターだらけの自室を何としても見られてはならないという緊迫感などで。

 そんな僕の緊張をよそに、彼女は天使のような笑みを浮かべている。

 彼女は幸せそうに、野菜炒めを頬張った。こんなときまで、笑顔である。

 ――この笑みが、僕だけのものになったらいいのにな。 

 ふと、そんな邪な邪念がよぎり、懸命に首を横に振った。いかんいかん。これじゃ、ストーカーと同じ思考回路だ。 

「ここなら、オレもいますし、京野も信用できる奴ですし、部屋も開いてますから、安心して泊まってってください。オーナー李さんも来れなくて残念って言ってました」

「ありがとう、花房くん」

「それで、『つけられてる』って、具体的にどんな感じなんです?」

 僕がそう尋ねると、佐倉さんはぽつぽつと話し始めた。逃げても逃げても、後をつけてくる人がいると言うこと、ときどき、郵便物を送ったと言われて届いていないときがあると言うこと、そして、ドアノブに白くべたつく何かが付着していたりすること…。

「李さんはなんて言ってるの?」

「早急に引っ越すべきだって。事務所の女子タレントは私だけだから、そのために寮を作るわけにもいかないし、もっとセキュリティのしっかりしたところを探してくれるって」

「じゃあ、それまではここに住んだらいいですよ。ねっ、京野さん」

「えっ」

 それって、いつまで? まさか、一週間も二週間も彼女と同居なんて、さすがに身がもたない。

「ホ…ホテルのほうが安全じゃないかな…?」

「京野…まさか、先輩と住むのが嫌とか?」

「えっでっでも、大丈夫なんですかね、噂とか…」

「ここはシェアハウスではあっても、一応あのビルと同じオーナーのものだし、スタライの寮ってことになってるから、問題はないと思うよ」

 そうだ。確かにここは李さんの不動産で、スタライの寮…と言っても小松崎が住んでいるだけだが、寮の「予定」なのだ。むしろこの場合、場違いなのは小松崎にホイホイのせられて同居している僕の方である。とは言えまさか佐倉さんと小松崎を二人きりで住まわせるわけには絶対にいかない。

「それにいっそ、シェアハウスに住んでることを開き直っちゃえばいいと思うの」

「それって…つまり?」

「ここでの生活を配信しようと思って」

「は?」

 やべ、声に出てた。

「あっ、京野さんは映らないようにしますから…」

「京野は家政夫ってことにしとけば?」

「何、勝手に話進めてるんですか!?」

 ここでの生活を配信? 僕が家政夫?

 いや、家政夫になる事に異議はないが、そうなっては僕は「ファン」ではいられなくなってしまうじゃないか!

 そのあとに、もしファンである事がバレたら? 僕こそストーカーとして、捕まってしまう! そうしたらもう二度と、佐倉さんに口をきいてもらえなくなる…。

「どうした? 青い顔して」

「ごめんなさい。先走りすぎました…」

 彼女がうつむいて謝る。とんでもない。一番わがままを言っているのは僕だ。

 僕は慌てて首を振る。そうだ。僕に彼女への好意があるからいけないんだ。好意さえなければ、丸く収まるんだ。

 ――隠し通せばいいだけのこと。

 今までと同じだ。

 絶対に、悟られてはならない。

 そんなの、いつもやっている事じゃないか。

 「オトナ」なんだ。わきまえられる。

 これは仕事なんだ。公私を混同してはならない――。

「いえ、突然の事で理解が追い付かなかったんですが、僕に異論はありませんよ」

「やったぁ、では、これからよろしくお願いしますね!」

 ああ、神様。

 どうか彼女を傷つける輩を、すべて殺してください。

 たとえその中に、僕が入ったとしても。

「お疲れ様。ドミトリーの用意できたよ」

 彼女と同居して3日。超スピードで、李さんは部屋の用意を整えた。

 まだ慣れないまま、あっという間に過ぎてしまった。もう、彼女が吐いた息が部屋に充満することも、それを思い切り吸うこともできないと思うと、ちょっぴり寂しい。そして特に問題も起きずに過ごせたことに感謝。

 引っ越しにさらに1日掛かったが、それでも引っ越しシーズンにしては割安なところに頼むことができたらしい。

 僕と小松崎と李さんでぞろぞろと新居に向かう。さながら姫を守る護衛騎士のようだった(一人、まるで姫みたいな服を着た成人男性は混じっていたが…)。

 外は春うららといった陽気で、何のためにこんなことになっているのかすら、一瞬忘れてしまうほど暖かだった。

「ここまでで大丈夫です」

 佐倉さんはロビーで踵を返す。

「また困ったことがあったら、すぐに言うんだよ。きみはうちで最大で唯一の売れっ子なんだから」

「お褒めに預かり光栄です。これからもこのご恩を返すべく、精進します」

 李さんが、娘でも見るような目で優しく笑った。

 ――李さんって、独身だよな?

 この二人の仲は、単なる雇用主とタレントの域を超えている気がする。僕はそう直感した。

 世の中にはプロデューサーとアイドルの恋愛なんて言うものがごまんとあるし、まさか、まさかまさか――

「京野さん? 聞いてます?」

 ふいに彼女に名を呼ばれ、僕は自分がぼんやりしていた事に気が付いた。

 気付けばもう別れの挨拶も終わり、小松崎と李さんは外に出てしまっていた。

「あっ、なんでしょう?」

 僕が、何か用があって残ったと思ったのかな。実際は、妄想に嫉妬していただけなんて、口が裂けても言えないが。

「うち、寄って行きます? 何かお礼をさせてください。おいしいもの、たくさんご馳走になっちゃいましたから」

 天使の囁きに、身がこわばる。

「ま、まさか」

 咄嗟に口に出てから、後悔した。これじゃ拒否しているみたいじゃないか。

「も、もちろん、お邪魔したいのは山々ですが、噂になっては大変でしょう」

「…良いですよ」

 え?

 聞き取れなかった。僕は間抜けな顔で問い返す。

「京野さんとなら…噂になっても、良いですよ」

 彼女の頬は、この陽気のせいで、いつもの2倍くらい赤かった。

 僕の頭の中はいつもの10割増しで真っ白だった。返事に――主に、YESと言うのを必死で堪えようとしているのに苦戦していると、ふいに彼女はクスリと笑った。

「ふふふ、冗談です。今日はエイプリルフールですよ」

「ああ、何だ。びっくりした」

「本当に?」

「しましたよ」

 ふふふ、と笑ってから、彼女はぺこりとお辞儀をして、玄関へ向かっていった。途中、くるりと振り返って、

「お礼、考えておいてくださいね」

 と言うのも忘れずに。

 ――僕は考えを改めねばならないかもしれない。もしかしたら、彼女は悪魔なのかも――天使の顔をした、悪魔なのかもしれないと。

 耳まで赤く染まった僕には、帰りの会話なんてまったく耳に入ってこなかった。


 ――強引すぎた、かな。

 顔を真っ赤にした佐倉が、足早に階段を上る。

 ――"冗談です。今日はエイプリルフールですよ"

 嘘、じゃない。

 あなたが、優しいから。

 だけどその優しさが、憎い時もある。

 優しくしてほしいんじゃないの。

 私を見て欲しいの。

 だけど私は、あなたに釣り合う資格はないから。

 だから、「私」は――嘘しかつけない。

 私がふうと溜め息をついて部屋のドアを開ける。鍵はかかっていなかった。

「――? 鍵、かけなかったっけ」

 引っ越し業者が、かけ忘れたのかな?

 そう思って部屋の中に入ると――。

「ここがあんたの新しい部屋か」

 聞き覚えのある声がして、ふり返る。

 そこには、入沢君がいた。

「――入沢君? ど…どうして?」

 足が、がくがくと震える。

 修治さん。助けて、修治さん。

 私は無意識に頭の中で彼の名を呼んでいた。

「勘違いするなよ。ストーカーは俺じゃねえ。んなキモい事はしねえ。今日来たのは、話をするためだ」

「話…って?」

「――俺達の事さ」

 入沢くんは煙草をくわえたまま、ため息をついた。


[chapter:6 秋のご褒美]

「あっ」

 ある秋の夜。収録が終わってスタジオから上がって来ると、仕事を終えた小湊さんとはち合わせた。

 小湊さんを見るだけで、胸が高鳴る。もう秋も終わるというのに、彼女は半袖のシャツ一枚だった。寒くないのだろうか?

 気持ちを悟られないように、ぎこちなく挨拶する。

「お、お疲れさまで~す」

「ねえ今度またケーキ食べに来てよ。あれからかなり上達したのよ」

「え? ホントですか?」

「何でそんなに驚くのよ?」

「ス、スミマセン」

「定休日はいつも練習してるから」

「凄いですね」

「もうメレンゲはマスターしたわ。パンケーキは泡立てすぎないのがコツで…ねぇ、ちょっと、大丈夫?」

「あっ、すみません。ちょっと寝不足で」

 何日も寝ずに台詞の練習をしていたせいで、収録が終わってから疲れが出てしまったらしい。僕はよろけて壁にもたれてしまった。

「無茶しないでよ。今日はもう早く寝なさい」

「ハハハ、なんだかお母さんみたいですね」

「誰が年増だ! へくちっ」

「す、スミマセン! そうだ、これ」

「何よ」

 僕は着ていたジャケットを脱ぎ、小湊さんに手渡す。

「そんな恰好じゃ、風邪引きますよ」

「余計なお世話よ」

「す、すみません…」

 小湊さんにはああ言われたけど、休んでなんかいられない。もう少しだけ頑張ろう。僕は、落ちこぼれなんだから、人の何倍も努力しなければ、ついて行けないんだ。

「あ、佐倉先輩! オリコンチャート8位、おめでとうございます!」

「ありがとう」

 ある日の収録後、同じ事務所の先輩の”アンジェラ”こと佐倉先輩に挨拶した。彼女は同人上がりの声優で、そのときのホームネームをそのまま使っている。天性の声質で多くのファンを獲得している。事務所の稼ぎ頭だ。ちなみに、僕のハウスメイト、京野修治の好きな人でもある。

「小松崎くん、最近どう? ちゃんと休まなきゃ、ダメだよ」

「…分かってます」

「なら良し。そうだ、良かったら今度、お話できないかなぁ」

 彼女はこうして定期的に、事務所の後輩と”お話”をするのだ。それは、「相談に乗るよ」と直接言うと遠慮されてしまうからで、要するに、相談に乗ってくれるのだ。時に足りない部分の指導をしてくれたりもする。ファンもたくさんいるし、実力もあり、そして後輩想いの、本当に「天使」のような人だと思う。当然、僕だって恋い焦がれることもあるが、さすがに高嶺の花だ。

「さあ、できたわ。食べて」

 ある水曜日。アマリラを訪ねた僕を、小湊さんが出迎えた。今日はアマリラへ行くと言ったら、修治の奴、気を利かせて今日はアマリラへは行かないと言った。緊張するので、逆に二人きりにしないでほしいのだが…。

 僕がプリンをスプーンでひと口食べる。前のようなぱさつきはないようだ。

「あっ、美味しいですよ」

「そうでしょうよ。これでプリンはクリアね。」

 僕は彼女が料理本とにらめっこしながら、ウンウンとうなっている所を眺めていた。細かい仕事は、苦手のようだ。それでも、「覚えちゃえばこっちのもんよ」と息巻いている。と言うか今まで、ろくに勉強もせずに、お店を始めたらしい。そりゃあ、お客は来ないわけだ。

「にしてもさぁ、声優なんて、凄くない? 普通、なかなかなれないでしょ」

「そんな、僕なんか全然ダメで…」

「あのねー、人が褒めてんだから素直に受け取りなさいよ」

「す、すみません。」

「今日は…、何で来てくれたの?」彼女が声を小さくして聞いた。

「え、何でって…えっと…時間が…あったから?」

「何それ! ばかにしてんの!?」

「い、いや、もちろん来たいんですけど、仕事とか、稽古とかあって…」

「あんたさ、稽古し過ぎなんじゃないの? こないだ、寝てないって言ってたじゃん。寝ないでまで稽古するなんて、病的だよ」

「…僕もそう思います。だから佐倉先輩も、休めって。僕の家、両親ともに芸能人なんです。兄も…。しかもみんな、すごくレベルが高くて…僕、落ちこぼれなんです。僕もがんばらなきゃ、でないと、置いていかれる、って思うと、不安でどのみち眠れないんですよ」

 そうだ、僕はおかしい…このままでは、長生きできない。分かってはいるけど、どこからともなくやって来る焦燥感が、僕を苦しめるのだ。

「ねえ、そろそろ、マカロンにも挑戦してみようと思ってんだ」

「マカロン? それもお菓子ですか?」

「そう、最高難易度のお菓子よ。上手く作れたら食べさせてあげるわ。…ねえ、また来てくれる?」

 小湊さんといる時、僕はすごく安心する。ずっとこのままでいたいと思うくらいに。だけど、向こうはどう思っているんだろう? 僕のこと、「ヘンな奴」とか、「男のくせに、軟弱なヤツ」とか、思われてるんじゃないだろうか。

「もちろん」

「ほんとに? 良かった」

 彼女が、安堵した表情を見せた。胸がきゅっとしめつけられるのを感じる。

 ――こんな顔、初めて見た。

 僕のこと――少なからず、あてにしてくれてるのかな。

 期待しちゃっても、良いのかな…。

「大丈夫? 小松崎くん」

「は、はい」

 佐倉先輩との「個人授業」の日。上の空になっていた僕を、先輩が心配してくれた。

「やっぱり、調子悪い? 今度にしようか」

「いや、違うんです。今ちょっと別の事考えてて」

「そう? それなら良いけど…腹筋だけじゃなくて、背筋もした方がいいよって話は、聞いてた?」

「聞いてました。あの、先輩はイの[[rb:口 > くち]]ってどうやってます?」

「イの口?」

「はい、母音の…。養成所ではウと同じ形って言われたんですけど、どうしても上手く発声できなくて」

「えっ? 私口の形意識した事ないや」

「ええ??」

「そっか、養成所ってそういう事もやるんだね。私も養成所行こうかなあ」

「いや、先輩は完璧ですから行く必要ないですよ」

 練習していないのに、出来るのか、この人。恐ろしい人だ…。

「力になれなくてゴメン…でも、そんな事まで考えて演ってるなんて、やっぱり小松崎君はスゴイなあ」

「えっ? そんな事ないですよ」

「凄いよ。前から思ってたけど、小松崎君って、”努力の天才”だよね」

「…そんな風に言われたの、初めてです」

 先輩に、褒められた。

 それって、自信を持って良い、ってこと?

 もしかしたら先輩は、イの口のことも、滑舌のことも、きっと全部知っているのかも知れない。

 だけど、僕に自信を持たせるために、嘘をついているのかもしれないな。それでも…先輩のその気持ちが嬉しい、と思った。

「明日、オーディションだね。今日はしっかり休んで、悔いのないようにね」

「…はい!」

 オーディションの結果は、合格だった。初めての主役だった。

「小湊さん! 僕、今度のアニメの主役のオーディションに受かってしまいました!」

「フーン」

 僕たちはふたたび、アマリラで、小湊さんと「二人ケーキ品評会」をしていた。その「自分以外には興味ありません」みたいな態度…素敵です…

「じゃあ、ご褒美に彼氏にしてあげよっか」

「フェ!?」

「あら前、言ってたじゃない。彼氏になりたいって」

「あ…あれは…その…”僕も彼女いないんで落ち込まないでください”的な意味で」

「何よ!? あたしじゃダメなの!?」

「そ、そうじゃないですけど、その…資格があるのかなって」

「え? あたしに彼女になる資格?」

「違います、逆ですって」

「男っぽいのは、あたし一人で充分なのよ。あんたが手伝ってくれたとき…、嬉しかった。そんだけ」

 彼女の頬が火照り、耳が赤くなってた。

 もう冬の入り口だと言うのに、まだ半袖でいる。寒いのかな。それとも、別の理由で…?

「あ、大丈夫? また寝てないの?」

「いや、違います、嬉しさで目まいが………」

「ホント、アンタって、軟弱ねー」

 また彼女が笑う。

 彼女の笑顔に励まされ、僕は彼女を助ける。

 僕たち、支え合えたら、無敵かも知れないね。[newpage]

[chapter:7 嘘が、つけない]

 瞬く間に、一年が経った。

 「お礼」のことなんて、すっかり忘れていた。彼女の生活も落ち着き、僕がウェイターを始めてからまさに三度目の春が訪れようとしていた。

 彼女との関係は、昨年の急激な接近から一転、またウェイターとお客の関係に戻った。僕が努めてそうしたのである。本音を知られたくない。それが正直な理由だった。

 だから、彼女とこんな素敵なレストランで食事をしているのは、何かの妄想ではないかと疑いたくなる。

「お洒落なお店ですね」

「一度、来てみたかったんです。京野さんのお眼鏡に適うと良いのですが」

「大満足ですよ。ずっとお店を探していてくれていたなんて、ぜんぜん知らなくて」

「こちらこそ、お礼が遅くなってしまってごめんなさい。」

 “一人で行きづらいお店があるので付いて来てほしい”。それが、僕が望んだ「お礼」だった。つまりデートのお誘いである。でも彼女にしてみれば、お礼以外の何物でもない。店内はうす暗く、レトロな雰囲気を再現していた。言わば「大人のテーマパーク」のようなものだろう。洒落た店と言うよりは、何かのコラボカフェと言ったほうがいいくらい、店内には雰囲気がある。

「あれから、ストーカーはなくなりました。入沢くんが、裏で何かしてくれたみたい。私、彼が犯人かもって疑って、悪い事しました」

「本当に良かったですね。そう言えば、健は連れて来なくて良かったんですか?」

「彼とは別れたんです」

「えっ!?」

 思わず大きな声を出してしまった。

「またまた。今日はエイプリルフール…」

「彼、しばらく旅に出るって言って、いなくなってしまったんです。私とは、別れようって言い残して。これで良かったんだと思います。もともと、なんとなく付き合っていただけだったし」

 香織さんは、自分の過去のことを話してくれた。言葉の暴力やネグレクトを受けて、家出したこと。行政機関は、証拠不十分で保護してくれなかったこと。オーディションに落ちたけれど、健がタダで住み処を貸してくれたこと。そこから芸能界にデビューしたけれど、エックスレコーズとそりが合わず、李さんに引き抜かれたこと。その辺りの事は僕も聞いたことがあったが、彼女の人生を、彼女の口から語られることによって、心が、その嬉しさと、そして憐憫で満たされ、僕はなぜか、酔いが回ってしまったかのように、クラクラした。

 僕たちは、踊り、飲み、喋り、そして食事をする。生まれて、生きて、こんなに楽しいひと時を僕が過ごせるとは、思いもよらなかった。きっと、人生で一番楽しい時間だろう。

「いま、私が、全部『嘘でした』と言っても、あなたは笑って許してくれます?」

「嘘だったんですか? とてもリアルに聞こえましたけど」

「…嘘じゃ、ないです。…ただ、重すぎるから、みんな、嘘だと思いたがる。めんどくさがって」

「嘘にしないで」

 僕と彼女だけの世界。くるくると回って、踊り続けた。

「僕にだけは、嘘にしなくていい。全部、受け止めるから」

「…京野、さん…」

 彼女の目から、一粒の雫が零れたのが見えた。

「天使の涙が見れたんだ、僕は一生幸運かな」

「私、天使なんかじゃないですよ。ただの恵まれない女の子です」

「天使ですよ。ほら、こんなにも美しい」

 人差し指で涙袋をなぞると、彼女は人が変わったみたいに笑った。

「なんちゃって。嘘ですよ、京野さん」

「え? どこまでが?」

「ナイショです」

 彼女は口に指を当て、今までの涙が嘘のように明るく笑った。

 タクシーを降り、下祗園の駅に着いても、僕はまだ、余韻が抜け切らなかった。また明日から、僕たちは、ウェイターとその客、アイドルとそのファンでしかない。

「楽しかったですか?」香織さんが訊いた。

「ええ、とても」

「楽しんでもらえて良かった。どんな所がいいかって考えちゃった」

「あなたへのお礼なんですから、そんなに気を遣わなくてもいいのに」

「でも…せっかくなら、お互いに楽しみたいじゃないですか?」

「あなたと一緒なら、どこでも楽しいですよ」

「…またそんな、お上手ですね。騙されませんよ、今日は四月一日じゃないですか」

 遠くで、0時の鐘が鳴るのが聞こえた。

「…僕は本気ですよ」

 香織さんがはっとして、僕を見つめる。

「…京野さん。もう、エイプリルフールは、過ぎましたよ」

「…本当は、ずっと好きでした。ラジオで聞いた時から。貴女の優しさ、教養の深さの虜でした。白状します。あなたを追って、あのカフェにいました。僕はただの、”ガチ恋オタク”です…軽蔑します、よね」

 一分前なら笑って誤魔化せた言葉が、今はただ彼女に重たくのし掛かっている。

 言わなければ永遠に、彼女と「大人同士の付き合い」で居られただろう。だけど、これでもう本当にただの、”アイドルとただのファン”だ。

 彼女はきっと、「ごめんなさい」と云うだろう。そして天使の微笑みで、「これからも応援して下さい」と――

「――私も、嘘じゃないです。あなたが好き」

 香織さんは、切なげな瞳で、僕を見上げた。僕もはっとして、彼女を見つめる。

「私も、あなたの優しさが――ずっと前から、好きでした」

「本当ですか? 嘘ではなくて?」

「嘘ではないですよ、もう、京野さん、しつこい」

 ――”嘘”は、時に人を救い、時に生き残る術となる、なくてはならないものだ。また、明日から――僕はあなたの好きな僕になる。だから、明日から、あなたも僕の好きなあなたでいて欲しい。だけど――嘘と本音の入り混じる、この黄昏時だけ――本当の『本音』を、話させて欲しい。弱い自分で、居させて欲しい。あなたに、触れさせて欲しい、ねえ、いいかな? 僕の「天使」さん――。[newpage]


[chapter:8エピローグ]

[[rb:入沢 > いりさわ]] 健が突然飛び出して、車に轢かれそうな僕を助けたのは、去年の夏のことだった。奴ら、とうとう僕まで狙い出したらしい。

「助かったよ、ありがとう」

「猫が…」

「え?」

「お前んとこの猫がうるせぇから相手してやってたら、たまたまお前がいただけだ。運が良かったな」

「運だけは良くてね、昔から。だからこうして、やっていけてる」

「俺にも分けてほしいもんだ」

 彼は煙草に火をつけて吸い始め、咳払いをする。

「煙草は体に悪いよ。電子タバコにしたらどうだい」

「そんなパチモン、使えるかよ。」

 彼の発言に僕が笑うと、足元のクロすけが尻尾を振りだした。退屈しているのだろうか。

「――それで、犯人は誰なんだい?」

「ふむ、まぁその辺は見当がついてる。元々、俺が撒いた種だったんだよ」

「と、言うと?」

「俺は香織を売ったんだ。なのにあんたに引き抜かれたから、あいつらは怒ってる。俺はけじめをつけなきゃなんねえ。だから、しばらく旅に出ることにした。世間的には"自分探し"ってことにしている」

「その年で」

「正確にゃ、”限界探し”だな。色々やってみて、無理なら、相応の配慮をしてくれる奴を探す」

「なるほど、平和な社会というジグソーのピースになる覚悟が出来たんだね。」

 彼の発言に僕が笑うと、クロすけも笑った。入沢もニッと笑い、膝を叩いてから言った。

「じゃ、行くわ。香織に迷惑掛けた。新しい女でも探すわ」

「入沢君。所属事務所はスターライト・エンタープライズという道もあるのだから、考えておいてね」

 僕は、眉を下げて言う。これは本気の提案だ。

「こんな弱小事務所、こっちから願い下げだぜ」

「知ってるよ、君の性格は業界から嫌われてるって」

「救いの神にでもなったつもりか? チビの癖に」

「チビじゃないよ。それに、チビにチビって言ったらいけないよ」

「へいへい、分かったよ、カミサマに説教してもらえるなんて、俺も随分運がいいぜ」

 ――電子タバコは悪くないらしいよ。

 僕が云うと片手を振って、彼は旅立った。この後、結局彼はスタライに所属すること、小湊由美は僕らの仕事を手伝い、演出家として名を馳せることになること、そして京野は僕の代わりにスタライの社長に就任し、僕は本格的に執筆業に専念し、僕達6人の物語が始まることなどは、この頃の僕らはまだ、知る由もなかった。

 まあ、僕らの旅の顛末は、また別の機会に譲るとして、ひとまずこの短い季節をめぐる物語の幕を下ろそう。

 大丈夫、僕らならきっと、どんな困難にも立ち向かって行けるさ。


<fin> 

    神というものは、おそらくもういないのだと思う。

 昔は「神力」という不思議な力を持つ者だけが神官になれたのだが、今では多くが死に、定員割れして希望者は全員神官になれる。

 魔王が世界を征服して、5年が経った。

 と言っても魔王は人間をむやみに殺さない。但し大地は枯れ、食物は減り、何もしなくても死ぬのだが。

 俺が神官になったのは、何もそんな世界を変えたいとか、民の心の支えになりたいとか、そんな綺麗な理由じゃない。

 単純に、面白いからだ。

 無駄な祈りを捧げるバカな奴らを見ているのが。

 そして祈りが通じず死んでいく奴らを見るのが。

 こんなご時世でもーーいや、こんなご時世だからこそ、人は神に祈る。貢ぎ物は絶えない。俺はほらを吹いていれば簡単に食べ物がやって来るという仕事。こんな良い職、就かない手はないだろ?

「神に祈りなさい。神は必ず見ていらっしゃいます。この試練を乗り越えるためには、祈りの力が必要なのです。神は我々の祈りの力を見極めていらっしゃるのです」

 この神殿は魔王の住む城の一番近くにある。人間たちが暮らす辺境の町だ。

 魔王城は元々王城だったが、城下町はすべてモンスターのはびこる森に変わった。つまりここは、王都から二番目に近い町だったのだ。王族も貴族も、みな死んだ。少なくともこの国は。強い奴だけが町に残った。俺は魔法も、剣もそれなりに使える。この町でやっていくくらいのことはできる。魔王を倒さんとする剣士たちのお陰で、薬も大人気だ。帰ってくる人も、二度と帰らない人もいた。

 こうなると俺にとっての神は魔王だな、なんてことを考えるくらいには、ここの生活は性に合っていた。

「神父様。いつもありがとうございますだ」

「この町が無事でいられるのも神父様のおかげだ」

「ああ、ちがいねえ」

 逃げる宛もなく、ここに居座ってしまった町民たちが次々に貢ぎ物を納めていく。信頼と信仰という価値のないものと引き換えに。ちなみにこの町が襲われないのは町の冒険者と俺が定期的に魔物を討伐しているからなだけである。

「ありがとうございます。神もお歓びでしょう」

 俺はそう言って長年に渡って使用してきたスキル「偽善者の笑み」を発動した。

「神父様~!」

 貢ぎ物を腕いっぱいに抱えながら歩いていると、俺を呼ぶ声がした。振り返ると、ナターシャという町娘が居た。

 ふわふわとした銀色の髪と、透き通るような白い肌から、「森の聖女」と呼ばれている娘だ。

 彼女の家は森の中にあり、そこで作物を作って暮らしている。

 そう、作物を育てられるのだ、この廃れた土地で。しかも、魔物に襲われることもなく。普通はそんな事、出来るわけがない。

 彼女には恐らく、「神力」がある。神力があれば、土地を浄化する事が可能だからだ。どこからやって来た少女なのかは、未だ分からないし、用心するに越した事はないのだが、どうも頭が弱いところがある。それが演技なのか、素なのかは不明だ。

「昨日という日も無事に生きる事ができました。これも神の御心なのですね!」

「ええ、そうですね」

 そして筋金入りの信奉者なのだった。

 俺は彼女の一挙一動に気を付けながら、昼食をともにした。

 今のところ、彼女がこの町に害を及ぼす素振りはない。

 俺は別に彼女が神力を使う所を見たことがあるわけではない。作物を持ってくるから、周りがそう讃えているだけで、神力が無くても汚染されていない土地であれば作物は育つし、どこかから作物を調達しているだけの可能性もある。その場合、彼女は我々の脅威となるのか、しっかり見極めなければならない。もし、これが人間に化けたモンスターであるなら、かなりの強者なのは間違いないのだ。ただの人間だとしても、森で住んでいると言うのが本当なら、同じことだ。今の神殿は、結界もないので、モンスターだろうが魔王だろうが問題なく出入りできる。神殿にいるからと言って、モンスターでないとは言えないのだ。

「そう言えば、森に新しい人がやって来ました」ナターシャがパンにバターを塗りながら言った。このパンに使われている小麦も、彼女が育てたものである。

 森にはつねに新しい人が出たり入ったりしているので、恐らく旅人が来たとかそういう意味ではないのだろう。

「それは・・・住人と言う意味ですか?」

「はい、湖のほとりに・・・。女の人です」

 森の中に住む女か。やはり同じように神力があるのだろうか。やっかいだが、農業従事者が増えるのはありがたい。

「魔女だと名乗っていました」

「ま・・・魔女」

 魔女の定義は、曖昧である。しかし一般には、薬草学を極めた人間とされることが多い。森に住めるという事は、かなりの強者と考えてよさそうだ。あまり関わりたくないが、近くに来たからには動向を探らねばならない。

(それに「魔女」なら、薬を卸してくれるかも知れないしな)

 色々と手遅れになる前にと、急いで昼食を喉に流し込み、その足で森へ向かった。

* * *

 広大な魔王城の森に、俺は足を踏み入れた。

 出会った高レベルモンスターを次々と薙ぎ払いながら進んでいく。

 目指すのは湖のほとりの「魔女の家」である。

「魔女、ね」

 普段、薬は冒険者に採集してもらった薬草を、手すがらに製薬している。しかしその手間はばかにならない。いっそ魔女ごと雇ってやろうというくらいには俺はこの来訪を歓迎していた。

 わざわざ魔王城の近くに越してくるのだから、よほど力に覚えがあるのだろう。

 俺は用心しながら進んだ。

 魔女とは、薬草学に特化した女性を指す。魔力はあったりなかったり。隠しているだけかも知れないが。魔法使いとは違うらしいし、大学機関の研究者とも違う、何か独自の秘術を用いるとも言う。

(接触は避けよう。今日は確認と観察だけだ)

 しばらくすると、湖のほとりに出る。森の中の湖と言うと、恐らくここが一番大きいはずだ。

 辺りを見渡すが、家らしきものはない。

(ナターシャの勘違いか、別の場所か?)

 俺は気をつけながら進み、そして――。

「何者です!」

 突如目の前に現れた女性に、剣を突きつけられた。

(どこから現れた?)

 この女は、俺より#上手__うわて__#かもしれない。

 その可能性も当然考えての行動ではあったが、目が冴えるような感覚があった。

 女は矛を手に、驚いたような表情を浮かべている。漆黒の長い髪は、なるほど魔女のようだと思わないでもなかった。

 想像していたよりずっと若い。エルフかと思ったが違う。荷物を持っていないので、おそらく彼女が魔女で間違いないだろう。休憩中の冒険者という可能性もあるが、冒険者はたいてい神殿で薬草を買うので顔は覚えている。肩がこわばり、緊張しているらしい。

 俺は彼女を刺激しないように、温かな口調で言った。

「初めまして。私はクロス。ケソアッソーリの神官です」

 返事がない。彼女はいまだ、俺の顔を見て茫然としたままだ。

「あなたが引っ越したことを聞いて、ご挨拶に」

「挨拶?」はっとしたように彼女が答えた。

「もしよろしければ、あなたの事を少し教えていただけませんか? 危害を加えるつもりはありません。私一人でやって来ました」

 彼女はすっと矛を下ろす。警戒は解いてもらえたようだ。

「クロス様。失礼な行動をお詫びいたします。私の名はアデリア。この森に住むこととなりました、魔女でございます」

 まさかのカーテシーをする魔女。その姿はどこかの貴族令嬢かと思うほど様になっていた。とても礼儀正しい。正しすぎる。こんなにあっさり行くとは思っていなかった。

「まさかあなた様だとは思わなかったものですから」

 彼女はそう言葉を続けた。

「私のことをご存知でしたか」

「勿論。クロス神父は私の最大の推し…じゃなくて、お得意様になりそうでしたので」

 しかも、商売の話題まで向こうから振ってくるという又とない好機。

 俺は営業スマイルで返事をした。

「それはありがたい。どうかこれから、よろしくお願いしますね」

 その笑顔が彼女のハートを射抜いていたとは、この時は露ほども分からなかった。

* * *

「神父様!」

 あれから彼女は、事あるごとに神殿を訪れる。

 ナターシャといい、門は誰にでも開かれているとは言え、うちは休憩所ではないのだが。

 彼女の作る薬はかなり良質だった。俺もそこまで不器用ではないが、こんなに物知りで聡明な女性はめったにいない。どんな薬の知識も頭に入っており、その手際も完璧だ。だから気つけや毒消しなど、戦闘や日常生活に使えそうなものは一通り揃えてみた。

「これは惚れ薬でございます」

「さすがにそれは神殿には不要ですねえ」

「あら、神父様が個人的にお買い求めになっても宜しいんですのよ」

 そう言ってころころと笑うアデリア。

「それに、神父様は眉目秀麗でいらっしゃいますから、口にするものにはお気を付け下さいませ」

「ははは、ご冗談を」

 彼女の差し出すものを一通り吟味してみる。と言ってもひとつひとつ舐めて回る訳にもいかないので、半分は客が飲んでみてのお楽しみだ。

 ほかの人にも話を聞いてみたが、魔女の市民からの印象はあまり良くないらしい。何でも、挨拶代わりに腐った牛乳を配ったり、窓から部屋を覗き込んだりしていると言うのだ。

(もしかしたら、「悪い魔女」のほうなのかも知れないな)

 今見た薬におかしいところは見当たらない。それにせっかく人手があるのに使わないのも惜しい。それでも念のため、納品された薬は冒険者にだけ売り、町民には自分で作った薬を売ろうと思った。

「それと毒消しなのですが、材料を集めてからになりますので今しばらく時間がかかります」

「では私も手伝いましょう」

 毒消しの材料となるシアル草なら、ダンジョン中層で手に入る。わざわざ冒険者に頼むほどのものではない。

「慣れない土地でしょうし、群生地を紹介しますよ」

「まあ! デートというわけですね。嬉しいですわ」

 彼女の実力を見極めるいい機会だったので、デートでも何でもいい。俺はハハハと笑って返しておいた。

* * *

 アデリアは、強かった。

 見たこともない範囲攻撃を使い、俺が五回くらい攻撃しなければ倒せないダンジョンモンスターをいともたやすく屠る。戦えば負けるかもしれないと思った。ぶるりと震える。

 途中、「この頬肉が美味しいんです」とか、「この鱗が使えるんです」という説明を受けながら我々は進んでいった。何に使うのかは聞かないでおこう。

「まあ、このクリスタルは」

 アデリアが、とあるクリスタルの前で立ち止まった。

「このクリスタルがどうかしたのですか」

「とても純度が高いわ。このクリスタルの価値を知る者は、この辺りにいないのかしら?」

 アデリアは這いつくばって、クリスタルの結晶をしげしげと眺める。この女は、本当にこういったものが好きなのだろう。

「こんな純度の高いクリスタルならば、『透明化薬』が作れるでしょう」

「ほう。透明化薬が」

 伝説に聞いたことはあるが、どの本にも載っていなかった。魔女がどうやってその作り方を知ったのか分からないが、彼女の言うことなので、信用しても良いだろうと思えた。

「はい。このクリスタルに、豚の生き血、そして羊の毛、あとはモリアッジェの皮とガラスの欠片とサンチェの鱗を粉にするのですわ」

「割と簡単ですね」

「作り方が難しいのですわ」

 ふふふと笑って答えるアデリア。このくらいなら教えてもいいと思ったか、でっち上げである可能性もあったが、帰ったら俺も試してみようと思った。

「ここがシアル草の群生地です」

 毒消しの薬草は、毒に強い植物から作る。おのずと群生するのは、毒に汚染された場所になりがちだ。あまり来たいと思う場所ではないし、さっさと採集して帰ろう。

「まぁ、こんなにたくさん生えているのを見たのは初めてですわ。このダンジョンは素材の宝庫ですね」

 目をきらきらさせて、アデリアが言う。片手には血みどろの、剥いだばかりの毛皮を持っているが。

「気を付けて下さい。マジェの草もいっしょに生えていますから。ご存知だとは思いますが、裏側が紫のほうがマジェの葉です。聞いてます?」

 はっとした顔で、アデリアが答える。

「す、すみません。少々、緊張してしまって。そういえば、あなたと二人きりだったので」

 そのとき、自分の背筋が凍るのが分かった。

 彼女は薬を作れる。売れる。

 俺がいなくなれば、彼女はこの町で唯一の薬師になれる。

 しかもここは洞窟のなか。神力も使えない神官など、彼女にはひとひねりだろう。

「ふふふ、そういえばそうですね。私を始末するなら、今がチャンスですよ」

 思わず声が、震える。

(もしかしたら、同業者の出現で浮かれていたのかもしれない)

 油断はならない。ダンジョンから出られるまで、彼女から目を離してはならない。

 彼女は丁寧に薬箱に薬草をしまうと、じりじりと詰め寄ってきた。背後は壁。人形のような顔が目と鼻の先まで来る。胸を押し当てられながらアメジストブルーの瞳に射抜かれ、身動きがとれない。緊張で汗がつたった。

「まあ、想像力たくましいですこと」

 俺の手を取りクスクスと笑う様子は、さすがに魔女だった。

 結局、緊張していたのは、俺のほうだったと言う落ちだ。

* * *

 ナターシャが、ここのところ顔を出さない。

 急に寒くなったので、体調でも崩したのだろうか。

 ナターシャがどうなろうと俺はかまわないが、彼女は村の大切な食糧源(の生産者)だ。かと言って見舞いに行こうにも、森の中では普通の人間はおいそれと見に行くこともできない。

「…だから、ね? 神父様。頼むよ。ほかの男じゃ、信用出来ないからさ」

 村の食堂の店主が長い髪をたなびかせながらそう言って、俺に見舞いに行くように頼んできた。俺が護衛するのでいっしょに来るかと聞いたが、聞いただけでぶるってしまった。狼男のくせに、どうしてこう臆病なのか。

 村の人々の見舞い品を持って、ナターシャの家まで歩く。

 森の中に小さな小屋と井戸があり、なるほど畑には幾つかの作物が生えている。何の野菜なのか、俺にはあまり分からないが。

 ナターシャの姿はない。小屋をノックしてみる。

「ナターシャ。私です。神官です」

 返事がない。どこかに遠出しているのだろうか。もしかしたら、入れ違いになったという可能性もある。厩もなく、手掛かりになるようなものはない。まあ、女性の一人暮らしの家に厩があるはずがないが。

 すると、物音がして、ドアが開いた。

 ああ、やはり、顔が赤く、のぼせている。

「体調が悪いのですか?」

「ううう、ずみ゛ま゛ぜん…。温泉を掘り当てたので、調子に乗って長湯したら風邪を引いてしまって」

 何ともナターシャらしい理由である。

「入りますよ」

「えっ」

 彼女の静止を聞き流しながら、小屋に入る。

 隙間風だらけの、粗末な小屋だ。確か狩人が建てたと言っていたか。服や食器が散乱している。

「例の狩人は今どちらに?」

「ええと…、彼は死にました」

「死んだ? 彼が?」

「その…色々あって」

 彼女がもごもごと濁す。病人から色々問い質す訳にもいかない。今はとにかく休んでもらおう。

「寝ていて下さい。何か作りましょう」

「え。そんな…」

「大丈夫、任せてください。手先は器用なんです。あなたは(村にとって)大事な人なんですから」

「ふえぇ…!?」

 卵粥に、ミルクスープに、薬草を幾つか。あとはお見舞いにもらったお菓子をナターシャに食べさせた。

「今夜は外のサイロで休みます。何かあったら呼んでください」

「神父様」

「何でしょう」

「あ…ありがとうございます」

 彼女の顔はまだ熱を帯びているようだ。俺はナターシャの頬に手を触れ、熱いことを確認した。ほうっと熱に浮かされた表情をするナターシャ。

「ほんとうに…罪作りな人ですね」

「私が? 神のしもべである私が罪を犯す訳がないでしょう。変な人ですね」

 きっと、熱に浮かされて意味不明な言葉を口走ったのだろう。彼女は困ったように笑い、眠りに落ちた。こうして見れば、彼女は町娘らしからぬ美貌の持ち主と気付くことができる。雪のように白い肌と髪、ぷっくりと形よく血色のある唇は、どんな男も虜にするに違いない。

 無論俺は違うし、貧乏農家の家に長居する趣味はない。彼女の美しい顔から視線を上げ、ひとつため息をついた。

「ったく、なんで俺がこんなこと…」

 とぼやきつつ、村の生命線のために、狭い納屋生活がその後2日も続いたのだった。

 それから数日。村の寒さも本格的になってきた。

 俺はと言うと、アデリア対策の術をあれこれ考えて、寝不足の日々を送っている。

「きゃっ」

 買い出しを終え、神殿に向かう階段を登りかけた時、その声は聞こえた。

 見ると、ナターシャがこちらへ降ってくる。

 よけるわけにもいかないので、俺はあわてて受け止める。ふわりと、なびく髪から甘い香りがした。

 ナターシャがドジと言うのは周知の事実だが、ここまでドジとは。

「大丈夫ですか?」

「し、神父様、ありがとうございます…」

 俺の腕の中で顔を真っ赤にし、小鹿のように震えるナターシャが言った。

「気を付けて下さいね、ここの階段は急ですから。打ち所が悪ければ、このまま神の身許へ旅立つところでしたよ」

「後ろから、誰かに押されて…」

 それを聞いた瞬間、俺ははっとして上を見上げた。

 反射的に黒い髪の女を探す。

 だが、そこには誰もいなかった。それでも、何者かの鋭い視線を感じる。

 気のせいであれば良いのだが。

 ――場所は移り、ここは魔王城。

 すらりと背の高く、美しい女が入ってくる。

 黒のドレスに真っ赤な唇、誰が見ても市井の女ではなさそうだった。

「魔王様」

 腹心の部下アフルが報告する。

「お嬢様――アデリア様の居場所を掴みました」

「ほう、良くやった」

「どうやら城下の森に住み付いているようです」

 魔王――いや、女王は、手に持っている林檎をぐしゃりと潰す。

「アデリア…。私から『魔法の鏡』を隠した挙句、この地位まで奪おうと言うのか? それで、ナターシャの動向は」

「森で野菜などを育てているようです。聖なる力のせいで、それ以上のことは何も」

「フフフ…。アフル、急げ。アデリアから『魔法の鏡』を奪い返すのだ。そうすればナターシャと私の戦いの幕も引かれよう。」

「はっ」

 アフルがいなくなった後、誰もいない城で女が叫ぶ。

「アデリアといい、ナターシャと言い、なぜいつも私の邪魔をする? 奴らなど、魔物に食われてしまえばいい。豚の臓物を、あの子のものと偽った、あの狩人のようにな。この世で美しく、力のある女は、私だけで良いのだ。アーッハッハッハッ・・・・」

* * *

 五日前から続いている雨は、今日も性懲りもなく降り続いている。

 クロスは客足の絶えた神殿でひとり、つい先日のアデリアの家でのことを思い返していた。

 ナターシャの看病生活から数週間。今度はアデリアが神殿に顔を出さなくなった。

 魔女が野垂れ死のうがクロスには関係のない事だったが、作ると言われていた薬が来ないのは心配だ。こちらの行動も変わってくる。

「まったく…また看病生活なんてのは御免だからな」

 そう独りごちはしたが、そういえば花が好きだったな、行きがけに見舞いでも摘んで行くかなどと考え、自然と頬が緩んでいた。

 天気は鬱々としており、今にも泣きだしそうな空だった。森の中は夜中と見まごうほどに暗い。だが、外で仕事ができないほどではない。クロスは足早に彼女のもとへ向かった。

 魔女の家が近付いてくると、楽しそうな女の嬌声が聞こえてきた。

(まさか、魔女のものか?)

 恐る恐る近づくと、一組の男女が水辺で戯れている。

 抱き合って、ダンスを踊っているようにも見えるが、それにしては激しく、なりふり構わぬといった感じだ。

 声の主は、アデリアで間違いないようだった。背をのけぞらせ、淫らにドレスを着崩し、男にもたれている。

 もう一人の男は、貴族のような服を着ていた。貴族か、使用人かは分からないが、アデリアの知り合いなのだろうか。

(いや、知り合いどころではない。もっと親密な)

 そこまで考えていると、男が口を開いた。

「僕の可愛いアデリア。ねえ、今日は泊まらせてくれ。いいだろう?」

 クロスはどきりとして、その場に身を隠す。

 男は彼女の頬に口を近づける。彼女はくすぐったいというように笑う。

 クロスは、自分がここにいる必要はないように思えてきた。だが、本能的に男の正体が気になり、動けずにいた。

(人が心配してやったのに、男とお楽しみだったのか)

 クロスは、自分で気付かないうちに怒りを覚えていた。この土地には一人で来て、自分が一番互角に渡り合える相手であるように解釈していたのだが、それは大きな間違いだった。それに気付くと、きゅうに顔が熱くなり、自分にいら立った。

「あなたの願いなら、何でも聞くわ、アフル」

「本当に? じゃあ、あの鏡をくれる?」

「もちろんよ。鏡も、私も、あなたのものだわ」

 アデリアは、聞いたこともないような艶めかしい声色で男に愛を囁いている。

 その姿を見て、クロスの心に痛みが走った。

(ここにいると知られたら、彼女はどんな顔をするだろうか)

 羞恥で照れるか、弱みに握られたと青くなるだろうか。それとも、邪魔をするなと怒るのか。なんだか、今すぐ出て行って、雰囲気をぶち壊してやりたいような気持ちにもなってきた。

(帰ろう。ここにいる理由はない。奴らに気を掛ける必要も。もうこの場にいられない)

 クロスは、物音を立てぬように慎重に、けれども急いで重い腰を上げた。二人の笑い声をふり払うように、やるせない気持ちで神殿へと戻ってきた。

 雨はすぐに降り始め、それから数日、雨はまだ降り続いている。

 クロスは、冷め切ったうすい紅茶を口に含み、ため息を漏らした。

(アデリアに敵う人間は、俺くらいだと思っていた)

 とんだ思い上がりをしていた自分を、殴りたい気持ちだった。

 薬草の話も、戦いの話も、冒険者でも、ナターシャでも、物足りなく感じていた。彼女は、俺と似た者のような感じがし、勝手にライバル視していたように思う。

(もっと、薬の話を聞きたかった。もっと戦いの話をしたかった。男がいるとなると、それも難しいか)

 ハァと溜め息をつき、なにか、心に穴を開けられたように、数日は上の空だった。

 ――魔女ごときに。そう思っても、天気のせいか、憂鬱な気分が晴れなかった。

 いっそ、神官をやめて、もっと面白い冒険でもしようかと考えるくらいには。

「奴」がやって来たのは、日も落ち切った、しんと冷える夜半だった。

 ベルの音で聖堂に向かうと、そこに、例の男が立っている。

「いやあ、凄い雨だな。ここは雨宿りもさせてくれるのか?」

 貴族のような上品な服。落ちくぼんだ目。うろんげな瞳。雨に困った言いながら、微塵も濡れた様子もなく、生気のない男だった。

(これが魔女の相手か。闇の者同士、お似合いだな)自分のことを棚に上げ、クロスはそう考えた。

「神殿に御用でしたら、いつでも歓迎しますよ。但し、日中に限りますが?」

 つとめて穏やかにクロスが言うと、わずかに張り詰めた空気が漂った。

 奴はふと笑った。

「何、神などに興味はない。私が用があるのは、あんただよ、神官」

「私ですか。こんな夜中でないと話せない内容なのですかね」

「きみにいい仕事がある。なに、簡単なことだ」

 男の口が、ニイと不気味に笑った。クロスはそれを受け戸惑いながらも、不敵な笑みを返してやった。

 ――転職するなら、今だと思ったのだ。

* * *

 私が大きな間違いを犯したことに気付いたのは、薬が切れた三日後だった。

(大変だわ、大変だわ、大変だわ)

 取る物も取り敢えず、ただひたすらに神殿へ急ぐ。

 ノックもせずにドアを開ければ、そこには見覚えのある人が居た。

「おや、もう愛しのボーイフレンドは帰ったんですか?」

「わ、わ、わ、わたくし、わたくし…操られていたんです!」

「操られていた?」

「鏡を…鏡を奪われて…!!このままでは、ゲームが始まってしまう!」

 私は彼の胸倉を掴み、わなわなと震えた。

「落ち着いて下さい」

 神父様は、興奮しきった私の肩に手を置き、懺悔室に案内した。

 神父様に会えたことですこし冷静さを取り戻すと、自分がどれほどみすぼらしい格好をしているかに気が付いた。

 ドレスはほとんど面積がないし、髪も情事の後のようにぼさぼさである。きゅうに居たたまれなくなってしまったが、神父様はもう私の目の前に座ってしまっていた。

 どうか、お化粧だけは崩れていませんようにと願った。

(こんな時にまで、私はお化粧の心配をしているなんて――私ってほんとうにだめだわ)

「それで、ゲームとは?」

「はい。神父様は――転生を信じますか?」

「…転生? まさか、異教への勧誘ですか?」

「ふふふ、違います」

 私はすべてを彼に話した。

 私が転生者であること、ナターシャとして何度も人生を体験した事があること。

 そして先日、女王の部下アフルに薬を飲まされ、『魔法の鏡』を奪われてしまったこと。

「『魔法の鏡』は、知りたいことなら何でも教えてくれるのです」

「それを魔王――いや、女王が手にすると、どうなるのです?」

 こめかみを指で押さえた神父様が訊いた。

「『この世で一番美しい者』として、鏡はナターシャの名前を挙げ、女王はそれに嫉妬して、ナターシャに毒を盛るのです」

「それだけ? 世界の滅亡が早まるとかではないのですか」

「逆です。毒で眠ったナターシャを通りがかった隣国の王子が救い、そこから戦争になります。そして魔王は討伐され、世界は平和を取り戻し――娘の私は処刑される」

 そのとき、外から怒号がした。

「探せ! ここに逃げ込んだはずだ。魔女アデリアを捕らえろ! それから――神父クロスを!」

* * *

「こっちだ」

 俺は彼女の手を引いて、地下の調剤室へ立てこもる。

 彼女は動転していて、話を聞ける様子じゃなかった。

「どうして、どうして!? ――どうしてあなたまで追われているの!?」

「そりゃ、ナターシャに毒林檎を届けたのは私ですから」

「何ですって!?」

「落ち着いて。何も殺すつもりだったわけではありません。渡された林檎に何か仕込まれているのは分かりましたが、彼女には神力がある。ほとんどの毒は無効ですよ。私は貰うものだけ貰ってトンズラするつもりでした」

「そんな、無理だわ、あなたは殺される。どうして? だって、フラグは全て立てたはずなのに…」

「フラグ?」

「だって――看病したでしょう? ナターシャを!」

「ああ、しましたね」

「それから――階段からつき落とされて――ナターシャを受け止めたわよね!?」

「ありましたね、そんなことが」

「イベントをこなしたんだから、神官ルートに入ったんじゃないの!? なのに、なぜこんな…」

 彼女の話をまとめると、どうやら俺がナターシャ――どうやら、彼女は女王に殺された前国王の娘、つまりお姫様だったらしい――に毒を盛って処刑されるのはお決まりのパターンだが、俺とナターシャが恋仲になっている場合だけは別らしい。――その場合は俺は仕事を断り、仕方なくアフルが老婆に化け、ナターシャに林檎を渡すと言うのだが、だったら最初からそうしろよと思わないでもない――俺とナターシャを恋人にするには仲を深めるのが一番と、アデリアはわざと俺の前に彼女を突き落としたと言うのだ。それは、アデリアがナターシャとして生きていたときにも、新女王の娘としてのアデリアがやっていた事らしい。

「突き落とすとどうして仲が深まるんでしょうか」

「手当てとか致しますでしょう? 私という共通の敵を持つことで、仲間意識と同時に恋心が芽生えるのですわ」

「そういうもんですかね」

「そういうもんですわ!」彼女がうっとりした目で言う。

「ああ、こんな事なら、あなたをひと目見るためだけに、ケソアッソーリに来なければよかった。鏡を持って、遠くに逃げれば良かったのよ。そのせいで、ゲームを進め、あなたを危険に晒してしまった。私はバカだわ」

 アデリアのまっすぐな瞳から、大粒の涙が伝う。

 ああ、もう、まったく。そんな顔をするなよ。俺がバカみたいじゃないか。

「――ああ。あんたはバカだ。大バカだよ」

 俺の暴言に、アデリアがはっとした顔で俺を見た。

「何で、俺なんかのために、そんなバカな事をするんだ」

「神父様…ずっとお慕いしていました。ナターシャでいた頃から、ずっと貴男だけを。母上に襲われると分かっていても、あなたに一目お会いしたかった…欲にまみれた私を、神はお許しにならないでしょう」

「神などいない。いるものか」

 俺は思っていた事をぶちまけた。言葉がとまらなかった。

「そもそも、俺の気持ちをどうこうできると考えてる時点でバカだ。俺は自分の事しか考えてないクソ野郎だ。俺なんかのために何かをするなんて、とんだ間抜けだ。愛だの恋だの、ばかばかしい。それに、薬を飲まされたんだか知らないが、あの男とお楽しみだったじゃないか。舌の根の乾かぬうちに、今度は俺に鞍替えか、この魔女め」

 言っていて、自分でもこれは嫉妬だと分かった。分かっても、口から出てきてしまった。彼女の気持ちに触れ、俺の隠していた気持ちまで、掘り返される気分だった。

「違います! あのとき――奴は、あ…あなたの姿で現れたから…油断したのです」

 俺は口をつぐみ、唾を飲み込む。頬を染めながらそう言うアデリアを見て、俺は安堵した。そんな気持ちを悟られぬようかぶりを振る。

 深い意味はない。断じてこの感情に深い意味はない。

 俺はそう言い聞かせ、はずむ鼓動と息を整えた。

「――この場所が見つかるのは、時間の問題だ」

「神父様。どうか、私を殺してください」

「は?」

「あなたは、私に脅されたと証言するのです。私の首があれば、酌量があるに違いありません。私は、処刑されるくらいなら――あなたの手に掛かりたい」

 アデリアの冷たい手が、俺の手を握る。

 俺はどうしたものかと迷ったが、ふうと息を吐き、その手を握り返した。

「そんなに死にたいなら、消えてしまえばいい」

 冷たい俺の声に、彼女の青い顔はさらに青くなった。

* * *

 ――ずっと、透明人間みたいだと思っていた。

 孤児院でも、幾つか転々としたギルドでも、俺は居ても居なくてもいい存在だった。

 誰にでも愛想が良く、当たり障りのない会話をしてやり過ごしてきた。それでも隠れて、勉強と修行に明け暮れた。

 ――世界から、「お前など要らない」と言われている気がしたから。

 生きることと、修行をすることは、繋がっているようで、別物だった。「生きている」俺には、何もなく、いくら強いモンスターを屠れるようになっても、目立った働きをして面倒事が増えることは避けた。

 近づいてくる女はいた。良いと思う女もいた。でも皆、自然消滅したり、よしんば深い仲になっても、俺の本性を知れば怒って去っていった。俺は、当たり障りのない人間だから。

 だから、神官になった。

 一生ヘラヘラしながら、裏で何をしようがかまわない仕事。

 口では神の存在を説きながら、その実は最低なペテン師。

 神官の暮らしは悪くなかった。

 変わらない人々。お決まりの台詞。

 それでもやっぱり、空しさはあった。

 自分は一人なのだという空しさが。

「――私は知っています。あなたが孤児院を転々としてきたことも…友をみな魔物に襲われて亡くしたことも」

「――それは、ナターシャである貴女に俺が話したのですか?」

「一部はそうです。他は、人物紹介に書いてありました」

「――……なるほど。納得した…と言う事にします」

 調剤室にあった『透明化薬』を飲み、二人は無事に神殿を脱出することに成功した。

 あれはまだ開発途中だったが、上手く働いて良かった。

「それにしても、さすがですわ。私は透明化薬を作る際の注意点など、何もお伝えしていないのに」

「クリスタルの特性を考えて、色々試していたのですよ。もしもあなたが牙を向けてきたら、と思って色々対策を練っていたんですがね」

「まぁ、そんなに気に掛けて下さっていたなんて、光栄だわ!」

「…」

 村の喧騒は、すでに聞こえないくらい遠くになっていた。このまま行けば、隣国との国境に出る。その後のことはまだ、決めていない。

「これから、どうしましょう」

 アデリアが聞いた。

 それを俺に聞くのか?

「そのことだが――」

 俺が口を開こうとした瞬間、どこからか斬撃が飛んできた。

「神父様!」

 咄嗟に避けると、そこには例の紳士が立っていた。

「酷い、酷いじゃないか、アデリア。僕に囁いた愛の言葉は、嘘だったのかい? そんな馬の骨と駆け落ちだなんて…死んだ母君も許さないだろう」

「アフル…それはこちらの台詞よ。神父様に化けて、私に惚れ薬を飲ませるなんて、なんて卑怯なの。私はお母様も、あなたも嫌いだわ。二度と姿を見せないで頂戴」

 アフルの眉が、哀れなほどに下がった。そして、俺を睨みつける。

「――始末できると思ったのに」

「残念だったな。生憎、悪人って言うのはしぶとい生き物なのさ」

「まあ、良い。死ね!」

 言うと同時に、何十というダガーが俺に飛んでくる。風魔法でそれを防ぐと、アデリアが闇魔法で彼の動きを封じた。

「今です、神父様!」

 俺は素早く彼の喉を掻き切った。奴は苦しみの声を上げ、それから1本の老木となり、そこに佇んだ。

「何だ、これは?」

「彼は木の化身なのです。お母様の魔法で動いていたのですが…お母様なき今、二度と動くことはないでしょう」

「そうか」

「それにしても、私たち、息ピッタリでしたわね!」

 屈託のない――ように見えて、裏のありそうな笑顔で彼女が振り返る。

 やはり、俺に言わせる気だな。

「あー、その…なんだ、つまり…」

 彼女が俺の言葉を待っている。

「――契約しないか?」

「契約、ですか?」

「冒険者としてあんたを雇う。俺はあんたに協力する。つまり、協定だ」

「ふふふ、協定ですね、今はそれで我慢しましょう」

 妖艶な微笑みで、魔女は笑った。今にも箒にまたがって、「揶揄ってみただけよ」と気まぐれに飛んで行ってしまいそうだと思った。

 そして、それを恐れる自分がいることも分かっている。

 俺は自嘲するように笑い、彼女に近づいた。

「次の街に着いたら、また腐った牛乳を配るのか?」

「なっ…あ、あれは、失敗しただけです! まさか腐っていると思わなくて…」

「相当強烈な挨拶だったぞ」

 俺はいたずらっぽく笑う。

「私は…私は、この世界ではずっと『悪役』の星の下なのです。不思議な力が働いて、新鮮な牛乳もたちまち腐ってしまうのです」

 アデリアが歩みを止める。

「だからきっと、これからも、私といると…悪役にされてしまいます。それでも――良いですか?」

 唇をきゅっと結んで、アデリアが訊いた。また、涙を流しそうな顔である。

「泣くなよ」

「え?」

「あんたはただ、笑っていれば良い。魔女らしくな」

 彼女の目元を指でなぞる。

「ま…魔女らしく?」

「あんたと俺で、悪に染まって生きようじゃないか」

 そんな人生、最高じゃないか?

 俺がにやりと笑えば、彼女も不敵に笑う。

「――ほんと、好き」

 ――俺もだよ、悪役令嬢。

 透明でもいい。あんたが色をくれるなら。

 ―――

 こうして魔女と闇に染まった神父は、真っ暗な森の中へと消えて行きました。

 その後、どこかの遠い国で、新しい魔王が誕生したとのことですが――王子とナターシャには、関係のないことです。

 めでたし、めでたし。

*おしまい*

登場人物・用語解説

アマリラ…カフェの名前。

京野修治…ウェイター。アンジェラカヲリのファン。一人称は「僕」。

小湊由美…カフェの店長。

佐倉香織…アイドル声優。芸名は「アンジェラカヲリ」。スターライト・エンタープライズ所属。

入沢健…離婚した京野の父親の第二子。X-records所属の歌手。佐倉の同期。

李有礼…スターライト・エンタープライズ所長。

小松崎夜斗(ないと)…スターライト・エンタープライズ所属の若手声優。

マルクロード高橋…X-recordsの所長。

クロすけ…猫

スターライト・エンタープライズ

下祗園

六角荘…京野と小松崎の住むシェアハウス。


[chapter:1 一回目のエイプリル・フール]

“アンジェラさん”は、いつも優しい。

 どんな人にも笑顔で対応するし、分かりやすい言葉で、落ち着いた口調で話す。

 服装も華美でなく、落ち着いていて、誰の目にも優しい色だ。

 困っている人がいればそっと手助けしたり、悲しんでいる人がいれば慰めることだってする。

 僕の働いているカフェ「アマリラ」は、とあるレコーディングスタジオの1階にある。4階建てのビルで、ほかにもタイ料理店やバレエ教室、声優事務所「スターライト・エンタープライズ」なんかが入っている。カフェの常連には、有名な声優もいるのだ。読み合わせをしたり、朝食を食べたり、休憩所代わりにしていたりしている。アンジェラさんもその一人だ。彼女はその名前で活動している。本名は知らない。一介のウェイターである僕が、知る筈もない。

「京野さん」

 彼女の透き通った美しい声が僕の名を呼んだ。それだけで、脳天を駆け抜けるような快感を感じた。ラジオ越しなんかより、ずっと素敵だ。

「ホットコーヒー、おかわりお願いしていいですか」

「分かりました」

「ありがとうございます」

「えー、じゃケッコンする気ないのー」

 きょうも、近所の子供の相手をしてあげていた。

 アンジェラさんは、子供のファンたちにも真摯に対応するのだ。だが子供の、容赦のない質問に、いつもとても戸惑っている。

 ――けど、彼女にだってきっと、ああいう時期がきっとあったのだろう。僕にもあったように。その時期の彼女を知らないのが、とても悔しい――いや、やめよう。これじゃあ、ストーカーだ。僕は決してストーカーではない。確かに彼女のいる事務所が近いから、このカフェで仕事をしているけど――

「ファンのみんなが大好きだし、作品が子供みたいなものだからねえ」

 彼女にコーヒーを持って行くと、女の子が言った。

「ね、京野さんは? イケメンだし、気が利くし、年も近いでしょ」

「へっ?」急に僕の名前が挙がり、まんざらでもなかったので、ドキリとしてしまった。

「ね、京野さん、アンジェラちゃんとケッコンする?」

「え――ええ、そうなったらとても嬉しいですけど…。」

「まぁ、そんな…。京野さんみたいな方は、とても私なんかじゃ…」

 出た――大人の「茶番」。

 だけど、大人は、相手を傷つけてはならない。

 もしかしたら、アンジェラさんは、同性愛者かもしれないし、何か大きな欠陥があるのかもしれない。

 だけど、それを受け入れてくれる人ばかりではない。だから、そのことに触れず、なおかつ相手を立てるために、「大人」は優しい振りをする。

 そして、社会は、平和を保っているのだ。

「するの、しないの、どっちなの?」

「オトナってどうしていつも、言葉を濁すんですかね」

「オトナだからだろ」

 子供たちが口々に言う。

 思いやりを、持っているからだよ――。

 子供は、みんな弱者だし、差と言っても大差はないから、まだ本音で語り合える。

 しかし大人になるにつれ、格差が増し、同じように話すだけで相手を傷つけたり、傷ついたりしていくことになるのだ――。

「あ、そだ、アンジェラちゃんの本名って何ていうの? あたしは坂井典子!」

「僕は高橋孝太郎です」

「あたしは中村利奈だよ。おねえさんは?」

「んー、内緒」

「えーなんでー! みんな自己紹介したのにー」

「名乗らないなんて失礼だー」

「じゃあ…耳貸して」

 アンジェラさんが、子供たちの耳元でじぶんの名前をささやく。

「えっ!? 龍之介…!?」

 内緒話にした甲斐なく、女の子が大声で叫んだ。

「まさか…アンジェラちゃんって…」

「元男…!?」

「ああ、そうなんだ…。みんなには内緒にしてくれよ…」

「そっか…なんか悪かったな、無理矢理聞いたりして」

「うん、あたし達ぜったい、言わないから!」

「大丈夫ですよ!」

 アンジェラさんが元男だろうと、僕は大丈夫だ。この感情に偽りはない。

「ありがとう…」

 と、そこまで神妙にしていたアンジェラさんの声が、とたんに明るくなった。

「なーんてね! ウソだよ! 今日は何の日か知ってる?」

「え? あっ!」

 エイプリル・フールかぁ~!

 子供たちが口をそろえて叫んだ。

「エイプリル・フールでした~!」

「だ、騙されたぁ~」

「もう、アンジェラちゃんは人が悪いなぁ~」

 皆が笑っていると、近くの教会から6時を告げる鐘が鳴った。

「あっ大変だ、もう6時だよ」

「あっやば、田中さんに怒られる。みんな行こ!」

「5名で1642円です」

「じゃーね、アンジェラちゃん! 今夜のゲキレンジャーも観るからね~!」

「ありがと~」

 騒がしい子供たちが居なくなると、店内はしんと静かになった。午後6時にこれだけ人が少ないのも、この喫茶店のケーキがあまり美味しくないことが理由なのだが…。

 僕とアンジェラさんはふと目を合わせ、「やれやれ」といった顔をお互いに示した。

「私も、お会計、お願いします」

「コーヒー2杯で、650円です」

 彼女はお金を千円札で支払って、僕はいつものようにお釣りを手渡した。

「ありがとうございました」

 僕が言ったその時、彼女が何か言った。

「――です」

「――え?」

「私の名前――"佐倉香織"です。いつも、『京野さん』って呼んでいるのに、なんだか不公平だから…」

「――あ、そんな、気になさらなくて、いいのに。あっ、僕は…京野修治と言います…ってどうでも良かったですね」

「――こちらこそ――忘れて下さいね」

「すてきなお名前ですね…香織さん…」

「修治さんも…美しい響きです」

 アンジェラさん――"香織"さんは、悪戯っぽく微笑んでから、店を後にした。

 ――いつもは、あんな風に笑わないのに。

 もしかして、今日が、エイプリル・フールだから…?

「香織――さん」

 名前を呟いただけで、胸が締めつけられる。彼女が居るだけで、それだけで僕の心は――全てを忘れてしまう。けど、僕はただのウェイターだ。この恋は、きっと叶うわけない。それでも、きょうは、エイプリル・フールだから。少しくらい、ばかになっても、いいよな…?[newpage]


[chapter:2 梅雨の憧れ]

 私の好きな人は、彼氏じゃない。元々そこまで好きではなかったけれど、腐れ縁で付き合い始めたのだ。”演技の参考になるかも”――そんな邪な想いもあったかも知れない。もちろん、本人には内緒だ。それから、ファンにも内緒だ。社長には、「一応、ファンには秘密にしてね。アイドル声優なんだし」と言われているし、そろそろ、別れを切り出したい。デビューした時に別れればよかったのだが、タイミングを逃してしまって、切り出せずにいる。

 京野修治さんは、下祗園のレコーディングスタジオ(ちなみに、このビルのオーナーと私の所属している事務所の社長は同じ)の地階のカフェ、「アマリラ」のウェイター。普段何をしている人なのか、彼女が居るのか、何も知らない。そもそも、フルネームだって、ついこの間知ったんだもの。

 けど私は、例え私に彼氏がいなかったとしても、行動に出るつもりはないの。だって私は”声優”だから。声優って、どうしても、世間からズレたイメージがある。オタクっぽいし、ジメジメしてて、引き籠ってるイメージ。ファンも変人ばっかりだったり(実際は、そんな事ないんだけど)。だから、いいの。私なんか、お呼びじゃないと思うし、絶対、ステキな彼女がもういるし。

「アンジェラちゃん、お誕生日おめでと~!」

 客席から歓声が沸く。今日はライブだ。私の誕生日にあわせて、毎年集まってくれる。今はそんな皆のために、心を込めて歌おう。私の恋人は、このファンたちだ。それでいい。

 楽屋には、沢山のプレゼントが届いていた。中にはとても高価な宝石などもあって、こんな高価なものをプレゼントできるような人も、好きでいてくれているという事がうれしかった。

 みんな、本当にありがとう。私はみんなのために、頑張るね。

 一人でプレッシャーを抱えるのが、辛くないと言えば嘘になる。もし、疲れたら――また、コーヒーを飲みに行こう。あの人になら、少しくらい甘えても大丈夫かも知れない。だって、いつも優しいから――。今日は、まだやっているかしら。誕生日だから――ひと目、会っておきたいなって思ったの。

 アマリラに入ると、驚いたことに、[[rb:健 > たける]]――私の彼氏がいた。どうして…? 私、このカフェのこと、何か話したっけ…? 注文を待つ間、トイレで待っていると、案の定、健も入ってきた。

「よっ」

「ど、どうしてここに…? お兄さんに会うって言ってたじゃない」

「ああ、ここは兄キが働いてる店だ」

「えっ!? それってまさか…」

「あの眼鏡の地味な奴だよ」

 どうやら京野さんが、健の腹違いのお兄さんらしい。共通の知り合いをきっかけに、最近やっと、連絡が取れたそうだ。言われてみれば、キリッとした顔立ちは似ている。

「お前こそ、ライブはどうした?」

「もう、終わったわ。ここのコーヒーは美味しいから…」

「そうか? さっきケーキ食ったけどゲロマズだったぜ」

「コーヒーはおいしいのよ」

「そんな事言って、まさか兄貴に惚れてんじゃねえだろうな?」

「まさか…」

 彼が無理矢理キスして来たので、私はされるがままに受けていた。待って、カギをかけてない――そう思った時ドアが開き、あろうことか京野さんが、モップを持って入って来た。

「あっ…し、失礼しました…じゃなくって、お客様。この店でそのようなことはお控え下さい。それと、もう閉店時間です」

「カタい事言うなよ、愛しの我がブラザー」

「駄目なものは駄目です」

 ――ああ、よりによって、京野さんにこんな所を見られるなんて。だけど、これでいい。無闇に争いは、生みたくないもの。

 閉店後。私は裏口で、京野さんが出てくるのを待った。ひとつ、言わなければならないことがあるから。黒猫がニャア、と私の足もとにやって来た。

「あら、クロすけじゃない。ここでもご飯をもらっているの?」

 彼(彼女かも)はこの町の野良猫。優しい人たちに食べさせてもらっているようだ。猫が住める町は、きっと平和だ。

 私はかがんで、クロすけと目を合わせた。それは近づいてきて、尻尾をピンと立てた。触れようとしたら、急に二足立ちしたので、びっくりしてよろけてしまう。それを京野さんが受け止めた。肘から、温かい手のぬくもりが伝わってきた。

「ご、ごめんなさい」

「クロすけですね」

「あなたも、クロすけって呼んでるんですか?」

「オーナーがそう呼んでました。…あの、何か忘れ物でも?」

「そうじゃないんです。あなたにひとつお願いがあって…2、3分、お時間ありますか?」

「あら修治、なーにその子、彼女?」

 ドアから女性が出てきてからかう。髪の長い、大人っぽい人だ。

「ち、違いますよ。」

「良いわよねーイケメンはさー彼女作り放題で」

「…あの、歩きながらのお話でもいいですか?」

「はい」

 私たちは、深夜11時を回った下祗園の町を歩いた。

「今日は降らなくて良かったですね」

「ええ、予報では降るって言ってましたけど」

「明日は晴れだとか」

「そのまま晴れが続くといいですね」

「そうですね」

 6月ではあるけれど、梅雨の合間であるからか、さすがに肌寒いな。そう思っていると、ポツリ、と雨が降り出す。慌てて傘を出そうとしたが、傘を忘れてしまった事に気付いた。

「あっ、どうしよう、傘が…」

「…僕ので良ければ、入りますか?」

「すみません…!」

 今日はツイてない。連日のリハーサルで、疲れているのかな。

「私、お邪魔だったんじゃないですか?」

「えっ?」

「さっきの方と一緒に帰られる予定だったのではないですか?」

「いやいや、大丈夫ですよ」

「すみません、京野さんっていつもお優しいから、困らせていないか心配で…」

「僕って、そんなに小心者に見えます?」

「そういうつもりじゃ…ごめんなさい」

「かまいませんよ。それで、お願いとは…」

「大したことではないのですが…弟さんと私の関係、内緒にしておいて欲しいんです。私、芸能関係の仕事をしているので――」

「ああ、そんな事ですか。お安い御用ですよ。」

「良かった、ありがとうございます。では私はこれで…」

「あっ、ちょっと待って下さい」

 京野さんは立ち止まると、私に紙袋を差し出した。

「前オーナーに聞いたんですけど、誕生日って6月ですよね? これ、僕が作ったケーキなのですが、良かったら」

「えっ、そんな、悪いです」

「いや、もらって下さい。作りすぎちゃったので。味は悪くないと思いますよ」

「ありがとうございます…」

「タクシー乗り場まで送りますよ」

「いえ、彼が車で待ってるので」

「では、そこまで送りましょう」

「ありがとうございます」

 高価なプレゼントも嬉しい。元気をくれるから。

 だけど、京野さんからのプレゼントは…甘くて、柔らかくて、あったかくなって、とても幸せになる。

「なんだか本当にお兄さんみたい」

「…やっぱり、健君の方がいいですか?」

「えっ?」

「あ、いえ、弟は幸せ者だな~って」

「…ありがとうございます」

 ああ、どうか永遠にこのままで居られますように…。あわよくば、私の義理のお兄さんになってもらえたら、すごく嬉しいな、なんて、さっきまで、あんなに別れようと思っていたのに、私もひどい女だわ。[newpage]


[chapter:3 クリスマス、本当に?]

 小さい頃から、要領だけは良かった。

 見た目もかなり可愛いし、話術もあった。何よりみんなが頼りにしてくれたって言うのは、あるかも知れない。だから昔から何でも任されてきたし、一人で全部こなしてきた。

 叔父の店を継いで、もう4年になる。いや、まだ4年にしかなっていない。経営は既に赤字で、現実の厳しさを思い知らされている所だ。

 だからだろうか。今まで男なんか全然興味なかったのに、最近なんだかすごく恋しい。

 京野修治とは、幼稚園からの付き合いだ。私のほうが2年上。家が近くて、私のワガママに付き合ってくれる優しい人が彼くらいしかいなかったから、そのままずっと付き合いを続けてる。私がカフェを始めた時も、ウェイターのバイトを引き受けてくれてる。朝早くから夜遅くまで、本当に助かってる。

 好き、だと思う。だけど同時に怖くもあった。全てを見透かされそうなほど、アイツは聡明だったから。だからあたしの気持ちにもとっくに気付いてると思う。それでも何もしてこないのは――きっと――そういう事。

「えっ、いま何て…」

「だから、クビだって言ったの。もうお給料払えないから」

 ある昼下がりに、ついに私は京野に言った。

「この店、一人じゃ回せませんよ」

「契約期間まではやる。そしたらもう畳むわ」

「なら、それまでは居ます」

「もう払えないって言ってるでしょ。明日からは一人で接客するから。ちなみにタダ働きさせるとあたしが捕まるからね」

「…分かりました」

「これ作ったのお前?」

 翌日はクリスマスイブだった。思い上がった男に早速クレームを付けられた。

「金返せよ」

 あたしのケーキ、そんなに不味いの? 叔父さんだって美味しいって言ってくれた。パパだってママだって、みんな美味しいって言ってくれたわ。

「アンタの舌がおかしいんじゃないの?」

「こんなマズいモン出しといてよく言えるな。こんな店とっとと畳んで田舎に帰れよ」

 頭にきて、皿を何枚も割った。

 ほんとは、分かってる。

 あたしはあたしが考えてるよりダメな人間みたい。やっと分かったの。私の周りのみんな、嘘つきだったんだって。私はただ、騙されてただけなんだって。私の人生って、一体何だったんだろ。なんで私だけ、こんな辛い思いをしなきゃいけないの…?

「ニャア」クロすけが窓越しに話しかけてくる。

「近づいちゃダメよ。危ないから」

 猫はいいな。あんなにわがままなのに、ただ可愛いってだけで人間に可愛がってもらえる。あたしも、猫くらい可愛かったらよかったのに。

「あのー…大丈夫ですか?」

 お皿を片付けていた手を止めて見上げると、京野ではない、見知らぬ青年が立っていた。

「邪魔なんだけど」

「手伝います」

 そう言って彼は素手で、割れた皿を掴み始めた。

「ちょっと、お客さんにそんな事させられないわ」

「ほんの少しだけですから」

 ほかの客は、知らんぷりだ。と言っても、3組しかいないが。

「…なんで手伝うのよ」

「だって…泣いてるから…」

 あたしは息をのんだ。あたしには、優しいってどういうことか分からない。助けてくれる人なんかいなかった。いつもあたしが頼られてた。小さい頃から料理だって作ってた。助けることも、助けられることも、よく分からない…。

 だけどこのとき、京野といるときみたいな、ほっとする気持ちになった。思わず、愚痴りたくなる。黙ってることができない性分なのよ。

「あーあ、クリスマスだって言うのにホント何やってんだろ。お金はないし、ケーキも作れないし、彼氏もできないし」

「彼氏、居ないんですか。良かったら僕なりましょうか」

「えっ?」

「冗談ですよ。すみません、不謹慎でした…」

 そいつはきまりの悪そうな顔をしてうつむいた。

 冗談…? ヘンなヤツ。

 なんかもう、クリスマスも、店もどうでも良くなってきちゃった。 [newpage]


[chapter:4 義理で隠して]

「同居してんのか!?」

「そうだよー。一緒にお風呂入ったりもするもんねー♪」

「たまにですよ」

「そ、そんな…犯罪だろ?」

「犯罪じゃないよ? だってボク、男だもん」

「えっ、男!? このチビがか!?」

 健と呼ばれた人が、驚いている。このビルのオーナー、[[rb:李 > り]] [[rb:有礼 > ありのり]]は、少女のように見えるが立派な成人男性で、声優事務所以外にも、不動産斡旋やカウンセリング業など様々な企業を経営しており、ちなみに僕と京野の同居人でもある。

「言っとくけど、僕、チビじゃないよ。君の背が高すぎるだけだろう。それに、チビにチビって言ったらダメだよ」

「男ならなんでメイド服なんか着てんだ」

「かわいーから❤ 似合ってるでしょ?」

「・・・・・・・・・まぁ・・・・・。」

「できたわ! 今度こそ美味しいはず!」

 僕らがスカートを持ってヒラヒラクルクルと回る李さんを見ていると、小湊さんが、大きなガトーショコラを持ってきて、ドンと僕の目の前に置いた。

「食べて」

 今日は、「アマリラ」の定休日なのだが、小湊さんに呼ばれた。京野もいて、ニコニコと笑っていた。どうやら今日は「店長オペラ品評会」らしい。ちなみにオペラというのは、チョコレートを使ったケーキのことだ。

「いや、こんなに食べられないです」

「食えよ」

「いえホント、こういうために手伝ったワケではないので」

「ヒトが泣いてるトコ見てタダで帰れると思うなよ」

「これ刑罰の類いですか!?」

 恐る恐るひと口食べた僕に、すかさず小湊さんが感想を求めてくる。

「どう? 美味しい?」

 この期待を込めた眼差しに、つい人は嘘を吐いてしまうのだろう。

「苦っ」

「何だと!? あたしのオペラが食えねえって言うのか!」

「す、すみません!」

 怒るなら、品評会の意味がないじゃないか…。

「由美さん、しばらくは僕がケーキを作りますよ。その間に、また勉強し直したらいいじゃないですか」

「なんで店長のあたしよりウェイターのアンタの方が上手いわけ…」

「今きっと調子が悪いだけですって。叔父さんからせっかく受け継いだお店なんですから、もう少し頑張ってみましょうよ」

「とか言って常連の女の子狙いだろ」

「え!? や、やだなあもう…」

 すると、教会から6時を知らせる鐘が鳴った。稽古の時間だ。

「あ、そろそろ帰らないと」

「え? 彼女いないくせにいやに早いわね。観たいテレビでもあんの?」

「明日、収録なんですよ」

「収録? アンタ、テレビ局の人?」

「声優です。地下にスタジオあるじゃないですか」

「彼、いつも家で遅くまで練習してますよ」

 僕は声優としてはまだまだ駆け出しで、いつもみんなの足を引っ張っている。だから、少しでも頑張らないといけないんだ。

 他に小湊さんの作ったガトーショコラ(オペラ?)を少し包んでもらって(って、小湊さんが勝手に包んでただけだけど)、僕はカフェを後にした。ほんのりとした心地よさに、後ろ髪を引かれる。袋の中のケーキの箱を一瞥し、クリスマスの夜のことを思い出した。

 ――僕なら、きっと諦めるだろう。

 下手とか、面と向かって言われたら、分かってはいてもやっぱり落ち込むし、きっと二度と立ち直れない。言う方にとっては何て事なくても、言われた方にとってはたまらないのだ。

 だから、何を言われても堂々と怒れる彼女を見ていると、ちょっと尊敬するし、心を締めつけている焦りとか不安が少しなくなって、ラクになれるんだ。そして気が付いたら、彼女を手伝ってた。

 (ケーキを食べる時間くらいは、サボってもいいかな。)

 にやつきながら外に出ると、佐倉先輩が、カフェの外で待っていた。俺と目が合うと、ばつが悪そうな顔をする。

 誰か待ってるのかな?

「先輩…何してるんですか?」

「あっ、あの…京野さん、いる?」

「いますよ。呼んできましょうか?」

「いっいやっ、い、いいの、いるかどうか聞いただけっ」

 なんだか、いつもの余裕のある先輩とは様子が違う。そもそもこんな所でつっ立ってたら、ファンの誰かに見つかるんじゃないだろうか?

 京野に用があるのなら、何もこんな所で待たなくても…人に聞かれたくないことなのかな?

 そこではたと思いだした。今日がバレンタインデーだということを。

 そう言えば、今年は佐倉先輩がチョコを配っているところを見ていない。配るのをやめたのかと思ったけど…。

 俺は帰るふりをして、少しだけ近くの建物の影で様子を伺うことにした。決して先輩のプライベートを覗き見しようとか、興味津々とか、そんなことはない。一切ない。

 京野が出てきた。外に先輩がいることに気付いたのだろう。

 何か話している。先輩はやはり様子がおかしい。出すか? いや、やはり考えすぎ――ほら、出した!

「みんなに配ってるの」なんて、大きな声で言っているのも聞こえてくる。

 ――配ってない。彼女にとって、渡すのは一人だけだ。それを知ってるのは、彼女一人だけ。彼女一人のなかで、バレンタインを遂行しているんだ。

 いや、一人だけではないかも? もしかしたら俺だけが渡されていないという可能性も…でも、先輩のあんな真剣な顔、初めて見た。

「良いなぁ…」

 もう、覗き見はやめよう。それで、後で京野に感想でも聞こうかな?

 恋は人を嘘つきにさせるって言うけど…天使も堕としてしまうとは、京野修治、恐るべし…。

 そこではっと気づく。

「待てよ、バレンタインって…」

――好きな人に、チョコレートを贈る日。

 自分の持っている袋を見る。

「…まさか、ね」

熱に浮かされながら、ふらふらと岐路に着く。今更意識しても、その真意はもう分からないのだった…。

 [newpage]


[chapter:5 季節、めぐりて]

「最近、つけられてる気がするんです」

 相談がある、と言われ、閉店後にカフェのスタッフで佐倉さんの話を聞いていた。小湊さんと、なぜか同席している小松崎が、ちらりと僕を見た。「僕じゃない!」と、ジェスチャーで伝える。確かに僕は佐倉さんの使っているヘアマニキュアの種類まで知っているが、それはストーキングから得た情報ではない。公式の情報なのだ。もちろん家だって知らない。方角なら、いや、番地まではさすがに分からない。きっとおしゃれなマンションなんだろう、とか想像するだけで我慢している。これがどれだけ忍耐の要ることか。もしストーカーがいるのなら、ファンの矜持を思い知らせてやらねばなるまい。表立っては温和に笑いながら、サイフォンを持つ手に力が入った。

「それは大変だ」

「商売敵の可能性もあるんだよね」

 李さんが言った。

「先輩は入沢さんに『X-records(エックスレコーズ)』に誘われてるんだ」

 話によると、スターライト・エンタープライズとX-recordsはちょうと仕事を取り合う関係にあるらしい。”スタライ”はファンを大切にする事務所、X-recordsは売り上げを大切にする事務所。方向性の違いからアンジェラさんはずっと断っているらしいのだが、最近いよいよ嫌がらせじみてきているという。

「僕が弟に言っておいてあげましょうか?」

「助かります。あと…」

「はい?」

 言いにくそうに口をつぐむ彼女に、僕は心配になって急かしてしまう。

「その。…入沢さんからしばらく、私を匿ってもらえませんか?」


「…どうしてこうなった」

 僕らのシェアハウス、六角荘。

 いつもは僕、小松崎、そしてたまにオーナーの李さんの三人で囲むテーブルに、場違いな天使が一人いる。薄汚いボロ家が、急に教会に変わってしまったかのようだ。ここを聖域に認定しなくては。

「まぁ、こんなにたくさんいただいて、良いんですか?」

「もちろんです。女性のお口に合うか分かりませんが…」

 そう言って僕は野菜炒めを取り分ける。

 もちろん、佐倉さんがここを選んだのは、李さんが所有する物件だからである。それ以上の他意はない。頼られたなんて思ってはならない。絶対に。それでも、どうしてもいつもの10倍は気を張ってしまう。緊張と、周囲への警戒と、あと、佐倉さんのポスターだらけの自室を何としても見られてはならないという緊迫感などで。

 そんな僕の緊張をよそに、彼女は天使のような笑みを浮かべている。

 彼女は幸せそうに、野菜炒めを頬張った。こんなときまで、笑顔である。

 ――この笑みが、僕だけのものになったらいいのにな。 

 ふと、そんな邪な邪念がよぎり、懸命に首を横に振った。いかんいかん。これじゃ、ストーカーと同じ思考回路だ。 

「ここなら、オレもいますし、京野も信用できる奴ですし、部屋も開いてますから、安心して泊まってってください。オーナー李さんも来れなくて残念って言ってました」

「ありがとう、花房くん」

「それで、『つけられてる』って、具体的にどんな感じなんです?」

 僕がそう尋ねると、佐倉さんはぽつぽつと話し始めた。逃げても逃げても、後をつけてくる人がいると言うこと、ときどき、郵便物を送ったと言われて届いていないときがあると言うこと、そして、ドアノブに白くべたつく何かが付着していたりすること…。

「李さんはなんて言ってるの?」

「早急に引っ越すべきだって。事務所の女子タレントは私だけだから、そのために寮を作るわけにもいかないし、もっとセキュリティのしっかりしたところを探してくれるって」

「じゃあ、それまではここに住んだらいいですよ。ねっ、京野さん」

「えっ」

 それって、いつまで? まさか、一週間も二週間も彼女と同居なんて、さすがに身がもたない。

「ホ…ホテルのほうが安全じゃないかな…?」

「京野…まさか、先輩と住むのが嫌とか?」

「えっでっでも、大丈夫なんですかね、噂とか…」

「ここはシェアハウスではあっても、一応あのビルと同じオーナーのものだし、スタライの寮ってことになってるから、問題はないと思うよ」

 そうだ。確かにここは李さんの不動産で、スタライの寮…と言っても小松崎が住んでいるだけだが、寮の「予定」なのだ。むしろこの場合、場違いなのは小松崎にホイホイのせられて同居している僕の方である。とは言えまさか佐倉さんと小松崎を二人きりで住まわせるわけには絶対にいかない。

「それにいっそ、シェアハウスに住んでることを開き直っちゃえばいいと思うの」

「それって…つまり?」

「ここでの生活を配信しようと思って」

「は?」

 やべ、声に出てた。

「あっ、京野さんは映らないようにしますから…」

「京野は家政夫ってことにしとけば?」

「何、勝手に話進めてるんですか!?」

 ここでの生活を配信? 僕が家政夫?

 いや、家政夫になる事に異議はないが、そうなっては僕は「ファン」ではいられなくなってしまうじゃないか!

 そのあとに、もしファンである事がバレたら? 僕こそストーカーとして、捕まってしまう! そうしたらもう二度と、佐倉さんに口をきいてもらえなくなる…。

「どうした? 青い顔して」

「ごめんなさい。先走りすぎました…」

 彼女がうつむいて謝る。とんでもない。一番わがままを言っているのは僕だ。

 僕は慌てて首を振る。そうだ。僕に彼女への好意があるからいけないんだ。好意さえなければ、丸く収まるんだ。

 ――隠し通せばいいだけのこと。

 今までと同じだ。

 絶対に、悟られてはならない。

 そんなの、いつもやっている事じゃないか。

 「オトナ」なんだ。わきまえられる。

 これは仕事なんだ。公私を混同してはならない――。

「いえ、突然の事で理解が追い付かなかったんですが、僕に異論はありませんよ」

「やったぁ、では、これからよろしくお願いしますね!」

 ああ、神様。

 どうか彼女を傷つける輩を、すべて殺してください。

 たとえその中に、僕が入ったとしても。

「お疲れ様。ドミトリーの用意できたよ」

 彼女と同居して3日。超スピードで、李さんは部屋の用意を整えた。

 まだ慣れないまま、あっという間に過ぎてしまった。もう、彼女が吐いた息が部屋に充満することも、それを思い切り吸うこともできないと思うと、ちょっぴり寂しい。そして特に問題も起きずに過ごせたことに感謝。

 引っ越しにさらに1日掛かったが、それでも引っ越しシーズンにしては割安なところに頼むことができたらしい。

 僕と小松崎と李さんでぞろぞろと新居に向かう。さながら姫を守る護衛騎士のようだった(一人、まるで姫みたいな服を着た成人男性は混じっていたが…)。

 外は春うららといった陽気で、何のためにこんなことになっているのかすら、一瞬忘れてしまうほど暖かだった。

「ここまでで大丈夫です」

 佐倉さんはロビーで踵を返す。

「また困ったことがあったら、すぐに言うんだよ。きみはうちで最大で唯一の売れっ子なんだから」

「お褒めに預かり光栄です。これからもこのご恩を返すべく、精進します」

 李さんが、娘でも見るような目で優しく笑った。

 ――李さんって、独身だよな?

 この二人の仲は、単なる雇用主とタレントの域を超えている気がする。僕はそう直感した。

 世の中にはプロデューサーとアイドルの恋愛なんて言うものがごまんとあるし、まさか、まさかまさか――

「京野さん? 聞いてます?」

 ふいに彼女に名を呼ばれ、僕は自分がぼんやりしていた事に気が付いた。

 気付けばもう別れの挨拶も終わり、小松崎と李さんは外に出てしまっていた。

「あっ、なんでしょう?」

 僕が、何か用があって残ったと思ったのかな。実際は、妄想に嫉妬していただけなんて、口が裂けても言えないが。

「うち、寄って行きます? 何かお礼をさせてください。おいしいもの、たくさんご馳走になっちゃいましたから」

 天使の囁きに、身がこわばる。

「ま、まさか」

 咄嗟に口に出てから、後悔した。これじゃ拒否しているみたいじゃないか。

「も、もちろん、お邪魔したいのは山々ですが、噂になっては大変でしょう」

「…良いですよ」

 え?

 聞き取れなかった。僕は間抜けな顔で問い返す。

「京野さんとなら…噂になっても、良いですよ」

 彼女の頬は、この陽気のせいで、いつもの2倍くらい赤かった。

 僕の頭の中はいつもの10割増しで真っ白だった。返事に――主に、YESと言うのを必死で堪えようとしているのに苦戦していると、ふいに彼女はクスリと笑った。

「ふふふ、冗談です。今日はエイプリルフールですよ」

「ああ、何だ。びっくりした」

「本当に?」

「しましたよ」

 ふふふ、と笑ってから、彼女はぺこりとお辞儀をして、玄関へ向かっていった。途中、くるりと振り返って、

「お礼、考えておいてくださいね」

 と言うのも忘れずに。

 ――僕は考えを改めねばならないかもしれない。もしかしたら、彼女は悪魔なのかも――天使の顔をした、悪魔なのかもしれないと。

 耳まで赤く染まった僕には、帰りの会話なんてまったく耳に入ってこなかった。


 ――強引すぎた、かな。

 顔を真っ赤にした佐倉が、足早に階段を上る。

 ――"冗談です。今日はエイプリルフールですよ"

 嘘、じゃない。

 あなたが、優しいから。

 だけどその優しさが、憎い時もある。

 優しくしてほしいんじゃないの。

 私を見て欲しいの。

 だけど私は、あなたに釣り合う資格はないから。

 だから、「私」は――嘘しかつけない。

 私がふうと溜め息をついて部屋のドアを開ける。鍵はかかっていなかった。

「――? 鍵、かけなかったっけ」

 引っ越し業者が、かけ忘れたのかな?

 そう思って部屋の中に入ると――。

「ここがあんたの新しい部屋か」

 聞き覚えのある声がして、ふり返る。

 そこには、入沢君がいた。

「――入沢君? ど…どうして?」

 足が、がくがくと震える。

 修治さん。助けて、修治さん。

 私は無意識に頭の中で彼の名を呼んでいた。

「勘違いするなよ。ストーカーは俺じゃねえ。んなキモい事はしねえ。今日来たのは、話をするためだ」

「話…って?」

「――俺達の事さ」

 入沢くんは煙草をくわえたまま、ため息をついた。


[chapter:6 秋のご褒美]

「あっ」

 ある秋の夜。収録が終わってスタジオから上がって来ると、仕事を終えた小湊さんとはち合わせた。

 小湊さんを見るだけで、胸が高鳴る。もう秋も終わるというのに、彼女は半袖のシャツ一枚だった。寒くないのだろうか?

 気持ちを悟られないように、ぎこちなく挨拶する。

「お、お疲れさまで~す」

「ねえ今度またケーキ食べに来てよ。あれからかなり上達したのよ」

「え? ホントですか?」

「何でそんなに驚くのよ?」

「ス、スミマセン」

「定休日はいつも練習してるから」

「凄いですね」

「もうメレンゲはマスターしたわ。パンケーキは泡立てすぎないのがコツで…ねぇ、ちょっと、大丈夫?」

「あっ、すみません。ちょっと寝不足で」

 何日も寝ずに台詞の練習をしていたせいで、収録が終わってから疲れが出てしまったらしい。僕はよろけて壁にもたれてしまった。

「無茶しないでよ。今日はもう早く寝なさい」

「ハハハ、なんだかお母さんみたいですね」

「誰が年増だ! へくちっ」

「す、スミマセン! そうだ、これ」

「何よ」

 僕は着ていたジャケットを脱ぎ、小湊さんに手渡す。

「そんな恰好じゃ、風邪引きますよ」

「余計なお世話よ」

「す、すみません…」

 小湊さんにはああ言われたけど、休んでなんかいられない。もう少しだけ頑張ろう。僕は、落ちこぼれなんだから、人の何倍も努力しなければ、ついて行けないんだ。

「あ、佐倉先輩! オリコンチャート8位、おめでとうございます!」

「ありがとう」

 ある日の収録後、同じ事務所の先輩の”アンジェラ”こと佐倉先輩に挨拶した。彼女は同人上がりの声優で、そのときのホームネームをそのまま使っている。天性の声質で多くのファンを獲得している。事務所の稼ぎ頭だ。ちなみに、僕のハウスメイト、京野修治の好きな人でもある。

「小松崎くん、最近どう? ちゃんと休まなきゃ、ダメだよ」

「…分かってます」

「なら良し。そうだ、良かったら今度、お話できないかなぁ」

 彼女はこうして定期的に、事務所の後輩と”お話”をするのだ。それは、「相談に乗るよ」と直接言うと遠慮されてしまうからで、要するに、相談に乗ってくれるのだ。時に足りない部分の指導をしてくれたりもする。ファンもたくさんいるし、実力もあり、そして後輩想いの、本当に「天使」のような人だと思う。当然、僕だって恋い焦がれることもあるが、さすがに高嶺の花だ。

「さあ、できたわ。食べて」

 ある水曜日。アマリラを訪ねた僕を、小湊さんが出迎えた。今日はアマリラへ行くと言ったら、修治の奴、気を利かせて今日はアマリラへは行かないと言った。緊張するので、逆に二人きりにしないでほしいのだが…。

 僕がプリンをスプーンでひと口食べる。前のようなぱさつきはないようだ。

「あっ、美味しいですよ」

「そうでしょうよ。これでプリンはクリアね。」

 僕は彼女が料理本とにらめっこしながら、ウンウンとうなっている所を眺めていた。細かい仕事は、苦手のようだ。それでも、「覚えちゃえばこっちのもんよ」と息巻いている。と言うか今まで、ろくに勉強もせずに、お店を始めたらしい。そりゃあ、お客は来ないわけだ。

「にしてもさぁ、声優なんて、凄くない? 普通、なかなかなれないでしょ」

「そんな、僕なんか全然ダメで…」

「あのねー、人が褒めてんだから素直に受け取りなさいよ」

「す、すみません。」

「今日は…、何で来てくれたの?」彼女が声を小さくして聞いた。

「え、何でって…えっと…時間が…あったから?」

「何それ! ばかにしてんの!?」

「い、いや、もちろん来たいんですけど、仕事とか、稽古とかあって…」

「あんたさ、稽古し過ぎなんじゃないの? こないだ、寝てないって言ってたじゃん。寝ないでまで稽古するなんて、病的だよ」

「…僕もそう思います。だから佐倉先輩も、休めって。僕の家、両親ともに芸能人なんです。兄も…。しかもみんな、すごくレベルが高くて…僕、落ちこぼれなんです。僕もがんばらなきゃ、でないと、置いていかれる、って思うと、不安でどのみち眠れないんですよ」

 そうだ、僕はおかしい…このままでは、長生きできない。分かってはいるけど、どこからともなくやって来る焦燥感が、僕を苦しめるのだ。

「ねえ、そろそろ、マカロンにも挑戦してみようと思ってんだ」

「マカロン? それもお菓子ですか?」

「そう、最高難易度のお菓子よ。上手く作れたら食べさせてあげるわ。…ねえ、また来てくれる?」

 小湊さんといる時、僕はすごく安心する。ずっとこのままでいたいと思うくらいに。だけど、向こうはどう思っているんだろう? 僕のこと、「ヘンな奴」とか、「男のくせに、軟弱なヤツ」とか、思われてるんじゃないだろうか。

「もちろん」

「ほんとに? 良かった」

 彼女が、安堵した表情を見せた。胸がきゅっとしめつけられるのを感じる。

 ――こんな顔、初めて見た。

 僕のこと――少なからず、あてにしてくれてるのかな。

 期待しちゃっても、良いのかな…。

「大丈夫? 小松崎くん」

「は、はい」

 佐倉先輩との「個人授業」の日。上の空になっていた僕を、先輩が心配してくれた。

「やっぱり、調子悪い? 今度にしようか」

「いや、違うんです。今ちょっと別の事考えてて」

「そう? それなら良いけど…腹筋だけじゃなくて、背筋もした方がいいよって話は、聞いてた?」

「聞いてました。あの、先輩はイの[[rb:口 > くち]]ってどうやってます?」

「イの口?」

「はい、母音の…。養成所ではウと同じ形って言われたんですけど、どうしても上手く発声できなくて」

「えっ? 私口の形意識した事ないや」

「ええ??」

「そっか、養成所ってそういう事もやるんだね。私も養成所行こうかなあ」

「いや、先輩は完璧ですから行く必要ないですよ」

 練習していないのに、出来るのか、この人。恐ろしい人だ…。

「力になれなくてゴメン…でも、そんな事まで考えて演ってるなんて、やっぱり小松崎君はスゴイなあ」

「えっ? そんな事ないですよ」

「凄いよ。前から思ってたけど、小松崎君って、”努力の天才”だよね」

「…そんな風に言われたの、初めてです」

 先輩に、褒められた。

 それって、自信を持って良い、ってこと?

 もしかしたら先輩は、イの口のことも、滑舌のことも、きっと全部知っているのかも知れない。

 だけど、僕に自信を持たせるために、嘘をついているのかもしれないな。それでも…先輩のその気持ちが嬉しい、と思った。

「明日、オーディションだね。今日はしっかり休んで、悔いのないようにね」

「…はい!」

 オーディションの結果は、合格だった。初めての主役だった。

「小湊さん! 僕、今度のアニメの主役のオーディションに受かってしまいました!」

「フーン」

 僕たちはふたたび、アマリラで、小湊さんと「二人ケーキ品評会」をしていた。その「自分以外には興味ありません」みたいな態度…素敵です…

「じゃあ、ご褒美に彼氏にしてあげよっか」

「フェ!?」

「あら前、言ってたじゃない。彼氏になりたいって」

「あ…あれは…その…”僕も彼女いないんで落ち込まないでください”的な意味で」

「何よ!? あたしじゃダメなの!?」

「そ、そうじゃないですけど、その…資格があるのかなって」

「え? あたしに彼女になる資格?」

「違います、逆ですって」

「男っぽいのは、あたし一人で充分なのよ。あんたが手伝ってくれたとき…、嬉しかった。そんだけ」

 彼女の頬が火照り、耳が赤くなってた。

 もう冬の入り口だと言うのに、まだ半袖でいる。寒いのかな。それとも、別の理由で…?

「あ、大丈夫? また寝てないの?」

「いや、違います、嬉しさで目まいが………」

「ホント、アンタって、軟弱ねー」

 また彼女が笑う。

 彼女の笑顔に励まされ、僕は彼女を助ける。

 僕たち、支え合えたら、無敵かも知れないね。[newpage]

[chapter:7 嘘が、つけない]

 瞬く間に、一年が経った。

 「お礼」のことなんて、すっかり

「お洒落なお店ですね」

「一度、来てみたかったんです。でも、男二人で来ると何かと…ねえ」

「ふふ、確かに、勘繰られてしまいそうですね」

 “一人で行きづらいお店があるので付いて来てほしい”。それが、僕が望んだ「お礼」だった。つまりデートのお誘いである。でも彼女にしてみれば、お礼以外の何物でもない。店内はうす暗く、レトロな雰囲気を再現していた。言わば「大人のテーマパーク」のようなものだろう。洒落た店と言うよりは、何かのコラボカフェと言ったほうがいいくらい、店内には雰囲気がある。

「健さんは…」

「彼とは別れたんです」

「えっ!?」

 思わず大きな声を出してしまった。

「またまた。今日はエイプリルフール…」

「彼、私を移籍させようとしていて。私は、”スターライト”から移籍する気はないの。李さんは、私の恩人だから」

 香織さんは、自分の過去のことを話してくれた。言葉の暴力やネグレクトを受けて、家出したこと。行政機関は、証拠不十分で保護してくれなかったこと。オーディションに落ちたけれど、李さんに拾われて、タダで住み処を貸してくれたこと。彼女の人生を、僕は初めて知り、共有した。心が、その嬉しさと、そして憐憫で満たされ、僕はなぜか、酔いが回ってしまったかのように、クラクラした。

 僕たちは、踊り、飲み、喋り、そして食事をする。生まれて、生きて、こんなに楽しいひと時を僕が過ごせるとは、思いもよらなかった。きっと、人生で一番楽しい時間だろう。

「いま、私が、全部『嘘でした』と言っても、あなたは笑って許してくれます?」

「嘘だったんですか? とてもリアルに聞こえましたけど」

「…嘘じゃ、ないです。…ただ、重すぎるから、みんな、嘘だと思いたがる。めんどくさがって」

「嘘にしないで」

 僕と彼女だけの世界。くるくると回って、踊り続けた。

「僕にだけは、嘘にしなくていい。全部、受け止めるから」

「…京野、さん…」

 彼女の目から、一粒の雫が零れたのが見えた。

「天使の涙が見れたんだ、僕は一生幸運かな」

「私、天使なんかじゃないですよ。ただの恵まれない女の子です」

「天使ですよ。ほら、こんなにも美しい」

 人差し指で涙袋をなぞると、彼女は人が変わったみたいに笑った。

「なんちゃって。嘘ですよ、京野さん」

「え? どこまでが?」

「ナイショです」

 彼女は口に指を当て、今までの涙が嘘のように明るく笑った。

 タクシーを降り、下祗園の駅に着いても、僕はまだ、余韻が抜け切らなかった。また明日から、僕たちは、ウェイターとその客、アイドルとそのファンでしかない。

「楽しかったですか?」香織さんが訊いた。

「ええ、とても」

「楽しんでもらえて良かった。どんな所がいいかって考えちゃった」

「あなたへのお礼なんですから、そんなに気を遣わなくてもいいのに」

「でも…せっかくなら、お互いに楽しみたいじゃないですか?」

「あなたと一緒なら、どこでも楽しいですよ」

「…またそんな、お上手ですね。騙されませんよ、今日は四月一日じゃないですか」

 遠くで、0時の鐘が鳴るのが聞こえた。

「…僕は本気ですよ」

 香織さんがはっとして、僕を見つめる。

「…京野さん。もう、エイプリルフールは、過ぎましたよ」

「…本当は、ずっと好きでした。ラジオで聞いた時から。貴女の優しさ、教養の深さの虜でした。白状します。あなたを追って、あのカフェにいました。僕はただの、”ガチ恋オタク”です…軽蔑します、よね」

 一分前なら笑って誤魔化せた言葉が、今はただ彼女に重たくのし掛かっている。

 言わなければ永遠に、彼女と「大人同士の付き合い」で居られただろう。だけど、これでもう本当にただの、”アイドルとただのファン”だ。

 彼女はきっと、「ごめんなさい」と云うだろう。そして天使の微笑みで、「これからも応援して下さい」と――

「――私も、嘘じゃないです。あなたが好き」

 香織さんは、切なげな瞳で、僕を見上げた。僕もはっとして、彼女を見つめる。

「私も、あなたの優しさが――ずっと前から、好きでした」

「本当ですか? 嘘ではなくて?」

「嘘ではないですよ、もう、京野さん、しつこい」

――”嘘”は、時に人を救い、時に生き残る術となる、なくてはならないものだ。また、明日から――僕はあなたの好きな僕になる。だから、明日から、あなたも僕の好きなあなたでいて欲しい。だけど――嘘と本音の入り混じる、この黄昏時だけ――本当の『本音』を、話させて欲しい。弱い自分で、居させて欲しい。あなたに、触れさせて欲しい、ねえ、いいかな? 僕の「天使」さん――。[newpage]

[chapter:8エピローグ]

[[rb:入沢 > いりさわ]] 健が突然飛び出して、車に轢かれそうな僕を助けたのは、五月下旬のことだった。奴ら、とうとう僕まで狙い出したらしい。

「助かったよ、ありがとう」

「猫が…」

「え?」

「お前んとこの猫がうるせぇから相手してやってたら、たまたまお前がいただけだ。運が良かったな」

「運だけは良くてね、昔から。だからこうして、やっていけてる」

「俺にも分けてほしいもんだ」

 彼は煙草に火をつけて吸い始め、咳払いをする。

「煙草は体に悪いよ。電子タバコにしたらどうだい」

「そんなパチモン、使えるかよ。」

旅に出ようと思ってさ。自分探しみたいなやつよ」

「その年で」

「正確にゃ、”限界探し”だな。色々やってみて、無理なら、相応の配慮をしてくれる奴を探す」

「なるほど、平和な社会というジグソーのピースになる覚悟が出来たんだね。」

彼の発言に僕が笑うと、足元のクロすけが尻尾を振りだした。退屈しているのだろうか。入沢も退屈してきたようだ。膝を叩いてから、言った。

「じゃ、行くわ。ああ、引き抜きのことはもう心配しなくていい。俺が話をつけた」

「話をつけたって? 買収でもしたの?」

「ま、分配の割合をちっといじっただけだ」

 入沢は仰々しく立ち上がり、暇を取ろうとした。

「入沢君。所属事務所はスターライト・エンタープライズという道もあるのだから、考えておいてね」

 僕は、眉を下げて言う。これは本気の提案だ。

「こんな弱小事務所、こっちから願い下げだぜ」

「知ってるよ、君の性格は業界から嫌われてるって」

「救いの神にでもなったつもりか? チビの癖に」

「チビじゃないよ。それに、チビにチビって言ったらいけないよ」

「へいへい、分かったよ、カミサマに説教してもらえるなんて、俺も随分運がいいぜ」

 ――電子タバコは悪くないらしいよ。

 僕が云うと片手を振って、彼は旅立った。この後、結局彼はスターライト・エンタープライズに所属すること、小湊由美は僕らの仕事を手伝い、演出家として名を馳せることになること、そして京野は僕の代わりにスターライト・エンタープライズの社長に就任し、僕は本格的に執筆業に専念することなどは、この頃の僕らはまだ、知る由もなかった。

 まあ、僕らの旅の顛末は、また別の機会に譲るとして、ひとまずこの短い季節をめぐる物語の幕を下ろそう。

 大丈夫、僕らならきっと、どんな困難にも立ち向かって行けるさ。

 

<fin>

 

 

登場人物・用語解説

アマリラ…カフェの名前。

京野修治…ウェイター。アンジェラカヲリのファン。一人称は「僕」。

小湊由美…カフェの店長。

佐倉香織…アイドル声優。芸名は「アンジェラカヲリ」。スターライト・エンタープライズ所属。

入沢健…離婚した京野の父親の第二子。X-records所属の歌手。佐倉の同期。

李有礼…スターライト・エンタープライズ所長。

小松崎夜斗(ないと)…スターライト・エンタープライズ所属の若手声優。

マルクロード高橋…X-recordsの所長。

クロすけ…猫

スターライト・エンタープライズ

下祗園

六角荘…京野と小松崎の住むシェアハウス。

[chapter:1 一回目のエイプリル・フール]

“アンジェラさん”は、いつも優しい。

 どんな人にも笑顔で対応するし、分かりやすい言葉で、落ち着いた口調で話す。

 服装も華美でなく、落ち着いていて、誰の目にも優しい色だ。

 困っている人がいればそっと手助けしたり、悲しんでいる人がいれば慰めることだってする。

 僕の働いているカフェ「アマリラ」は、とあるレコーディングスタジオの1階にある。4階建てのビルで、ほかにもタイ料理店やバレエ教室、声優事務所「スターライト・エンタープライズ」なんかが入っている。カフェの常連には、有名な声優もいるのだ。読み合わせをしたり、朝食を食べたり、休憩所代わりにしていたりしている。アンジェラさんもその一人だ。彼女はその名前で活動している。本名は知らない。一介のウェイターである僕が、知る筈もない。

「京野さん」

 彼女の透き通った美しい声が僕の名を呼んだ。それだけで、脳天を駆け抜けるような快感を感じた。ラジオ越しなんかより、ずっと素敵だ。

「ホットコーヒー、おかわりお願いしていいですか」

「分かりました」

「ありがとうございます」

「えー、じゃケッコンする気ないのー」

 きょうも、近所の子供の相手をしてあげていた。

 アンジェラさんは、子供のファンたちにも真摯に対応するのだ。だが子供の、容赦のない質問に、いつもとても戸惑っている。

 ――けど、彼女にだってきっと、ああいう時期がきっとあったのだろう。僕にもあったように。その時期の彼女を知らないのが、とても悔しい――いや、やめよう。これじゃあ、ストーカーだ。僕は決してストーカーではない。確かに彼女のいる事務所が近いから、このカフェで仕事をしているけど――

「ファンのみんなが大好きだし、作品が子供みたいなものだからねえ」

 彼女にコーヒーを持って行くと、女の子が言った。

「ね、京野さんは? イケメンだし、気が利くし、年も近いでしょ」

「へっ?」急に僕の名前が挙がり、まんざらでもなかったので、ドキリとしてしまった。

「ね、京野さん、アンジェラちゃんとケッコンする?」

「え――ええ、そうなったらとても嬉しいですけど…。」

「まぁ、そんな…。京野さんみたいな方は、とても私なんかじゃ…」

 出た――大人の「茶番」。

 だけど、大人は、相手を傷つけてはならない。

 もしかしたら、アンジェラさんは、同性愛者かもしれないし、何か大きな欠陥があるのかもしれない。

 だけど、それを受け入れてくれる人ばかりではない。だから、そのことに触れず、なおかつ相手を立てるために、「大人」は優しい振りをする。

 そして、社会は、平和を保っているのだ。

「するの、しないの、どっちなの?」

「オトナってどうしていつも、言葉を濁すんですかね」

「オトナだからだろ」

 子供たちが口々に言う。

 思いやりを、持っているからだよ――。

 子供は、みんな弱者だし、差と言っても大差はないから、まだ本音で語り合える。

 しかし大人になるにつれ、格差が増し、同じように話すだけで相手を傷つけたり、傷ついたりしていくことになるのだ――。

「あ、そだ、アンジェラちゃんの本名って何ていうの? あたしは坂井典子!」

「僕は高橋孝太郎です」

「あたしは中村利奈だよ。おねえさんは?」

「んー、内緒」

「えーなんでー! みんな自己紹介したのにー」

「名乗らないなんて失礼だー」

「じゃあ…耳貸して」

 アンジェラさんが、子供たちの耳元でじぶんの名前をささやく。

「えっ!? 龍之介!?」

 内緒話にした甲斐なく、女の子が大声で叫んだ。

「まさか…アンジェラちゃんって…」

「元男…!?」

「ああ、そうなんだ…。みんなには内緒にしてくれよ…」

「そっか…なんか悪かったな、無理矢理聞いたりして」

「うん、あたし達ぜったい、言わないから!」

「大丈夫ですよ!」

 アンジェラさんが元男だろうと、僕は大丈夫だ。この感情に偽りはない。

「ありがとう…」

 と、そこまで神妙にしていたアンジェラさんの声が、とたんに明るくなった。

「なーんてね! ウソだよ! 今日は何の日か知ってる?」

「え? あっ!」

 エイプリル・フールかぁ~!

 子供たちが口をそろえて叫んだ。

「エイプリル・フールでした~!」

「だ、騙されたぁ~」

「もう、アンジェラちゃんは人が悪いなぁ~」

 皆が笑っていると、近くの教会から6時を告げる鐘が鳴った。

「あっ大変だ、もう6時だよ」

「あっやば、田中さんに怒られる。みんな行こ!」

5名で1642円です」

「じゃーね、アンジェラちゃん! 今夜のゲキレンジャーも観るからね~!」

「ありがと~」

 騒がしい子供たちが居なくなると、店内はしんと静かになった。午後6時にこれだけ人が少ないのも、この喫茶店のケーキがあまり美味しくないことが理由なのだが

 僕とアンジェラさんはふと目を合わせ、「やれやれ」といった顔をお互いに示した。

「私も、お会計、お願いします」

「コーヒー2杯で、650円です」

 彼女はお金を千円札で支払って、僕はいつものようにお釣りを手渡した。

「ありがとうございました」

 僕が言ったその時、彼女が何か言った。

「――です」

「――え?」

「私の名前――"佐倉香織"です。いつも、『京野さん』って呼んでいるのに、なんだか不公平だから

「――あ、そんな、気になさらなくて、いいのに。あっ、僕は…京野修治と言います…ってどうでも良かったですね」

「――こちらこそ――忘れて下さいね」

「すてきなお名前ですね…香織さん…」

「修治さんも…美しい響きです」

 アンジェラさん――"香織"さんは、悪戯っぽく微笑んでから、店を後にした。

 ――いつもは、あんな風に笑わないのに。

 もしかして、今日が、エイプリル・フールだから…?

「香織――さん」

 名前を呟いただけで、胸が締めつけられる。彼女が居るだけで、それだけで僕の心は――全てを忘れてしまう。けど、僕はただのウェイターだ。この恋は、きっと叶うわけない。それでも、きょうは、エイプリル・フールだから。少しくらい、ばかになっても、いいよな…?[newpage]

 

[chapter:2 梅雨の憧れ]

 私の好きな人は、彼氏じゃない。元々そこまで好きではなかったけれど、腐れ縁で付き合い始めたのだ。”演技の参考になるかも”――そんな邪な想いもあったかも知れない。もちろん、本人には内緒だ。それから、ファンにも内緒だ。社長には、「一応、ファンには秘密にしてね。アイドル声優なんだし」と言われているし、そろそろ、別れを切り出したい。デビューした時に別れればよかったのだが、タイミングを逃してしまって、切り出せずにいる。

 京野修治さんは、下祗園のレコーディングスタジオ(ちなみに、このビルのオーナーと私の所属している事務所の社長は同じ)の地階のカフェ、「アマリラ」のウェイター。普段何をしている人なのか、彼女が居るのか、何も知らない。そもそも、フルネームだって、ついこの間知ったんだもの。

 けど私は、例え私に彼氏がいなかったとしても、行動に出るつもりはないの。だって私は”声優”だから。声優って、どうしても、世間からズレたイメージがある。オタクっぽいし、ジメジメしてて、引き籠ってるイメージ。ファンも変人ばっかりだったり(実際は、そんな事ないんだけど)。だから、いいの。私なんか、お呼びじゃないと思うし、絶対、ステキな彼女がもういるし。

「アンジェラちゃん、お誕生日おめでと~!」

 客席から歓声が沸く。今日はライブだ。私の誕生日にあわせて、毎年集まってくれる。今はそんな皆のために、心を込めて歌おう。私の恋人は、このファンたちだ。それでいい。

 楽屋には、沢山のプレゼントが届いていた。中にはとても高価な宝石などもあって、こんな高価なものをプレゼントできるような人も、好きでいてくれているという事がうれしかった。

 みんな、本当にありがとう。私はみんなのために、頑張るね。

 一人でプレッシャーを抱えるのが、辛くないと言えば嘘になる。もし、疲れたら――また、コーヒーを飲みに行こう。あの人になら、少しくらい甘えても大丈夫かも知れない。だって、いつも優しいから――。今日は、まだやっているかしら。誕生日だから――ひと目、会っておきたいなって思ったの。

 アマリラに入ると、驚いたことに、[[rb: > たける]]――私の彼氏がいた。どうして? 私、このカフェのこと、何か話したっけ? 注文を待つ間、トイレで待っていると、案の定、健も入ってきた。

「よっ」

「ど、どうしてここに…? お兄さんに会うって言ってたじゃない」

「ああ、ここは兄キが働いてる店だ」

「えっ!? それってまさか

「あの眼鏡の地味な奴だよ」

 どうやら京野さんが、健の腹違いのお兄さんらしい。共通の知り合いをきっかけに、最近やっと、連絡が取れたそうだ。言われてみれば、キリッとした顔立ちは似ている。

「お前こそ、ライブはどうした?」

「もう、終わったわ。ここのコーヒーは美味しいから…」

「そうか? さっきケーキ食ったけどゲロマズだったぜ」

「コーヒーはおいしいのよ」

「そんな事言って、まさか兄貴に惚れてんじゃねえだろうな?」

「まさか…」

 彼が無理矢理キスして来たので、私はされるがままに受けていた。待って、カギをかけてない――そう思った時ドアが開き、あろうことか京野さんが、モップを持って入って来た。

「あっ…し、失礼しました…じゃなくって、お客様。この店でそのようなことはお控え下さい。それと、もう閉店時間です」

「カタい事言うなよ、愛しの我がブラザー」

「駄目なものは駄目です」

 ――ああ、よりによって、京野さんにこんな所を見られるなんて。だけど、これでいい。無闇に争いは、生みたくないもの。

 閉店後。私は裏口で、京野さんが出てくるのを待った。ひとつ、言わなければならないことがあるから。黒猫がニャア、と私の足もとにやって来た。

「あら、クロすけじゃない。ここでもご飯をもらっているの?」

 彼(彼女かも)はこの町の野良猫。優しい人たちに食べさせてもらっているようだ。猫が住める町は、きっと平和だ。

 私はかがんで、クロすけと目を合わせた。それは近づいてきて、尻尾をピンと立てた。触れようとしたら、急に二足立ちしたので、びっくりしてよろけてしまう。それを京野さんが受け止めた。肘から、温かい手のぬくもりが伝わってきた。

「ご、ごめんなさい」

「クロすけですね」

「あなたも、クロすけって呼んでるんですか?」

「オーナーがそう呼んでました。…あの、何か忘れ物でも?」

「そうじゃないんです。あなたにひとつお願いがあって…23分、お時間ありますか?」

「あら修治、なーにその子、彼女?」

 ドアから女性が出てきてからかう。髪の長い、大人っぽい人だ。

「ち、違いますよ。」

「良いわよねーイケメンはさー彼女作り放題で」

「…あの、歩きながらのお話でもいいですか?」

「はい」

 私たちは、深夜11時を回った下祗園の町を歩いた。

「今日は降らなくて良かったですね」

「ええ、予報では降るって言ってましたけど」

「明日は晴れだとか」

「そのまま晴れが続くといいですね」

「そうですね」

 6月ではあるけれど、梅雨の合間であるからか、さすがに肌寒いな。そう思っていると、ポツリ、と雨が降り出す。慌てて傘を出そうとしたが、傘を忘れてしまった事に気付いた。

「あっ、どうしよう、傘が…」

「…僕ので良ければ、入りますか?」

「すみません…!」

 今日はツイてない。連日のリハーサルで、疲れているのかな。

「私、お邪魔だったんじゃないですか?」

「えっ?」

「さっきの方と一緒に帰られる予定だったのではないですか?」

「いやいや、大丈夫ですよ」

「すみません、京野さんっていつもお優しいから、困らせていないか心配で…」

「僕って、そんなに小心者に見えます?」

「そういうつもりじゃ…ごめんなさい」

「かまいませんよ。それで、お願いとは…」

「大したことではないのですが…弟さんと私の関係、内緒にしておいて欲しいんです。私、芸能関係の仕事をしているので――」

「ああ、そんな事ですか。お安い御用ですよ。」

「良かった、ありがとうございます。では私はこれで…」

「あっ、ちょっと待って下さい」

 京野さんは立ち止まると、私に紙袋を差し出した。

「前オーナーに聞いたんですけど、誕生日って6月ですよね? これ、僕が作ったケーキなのですが、良かったら」

「えっ、そんな、悪いです」

「いや、もらって下さい。作りすぎちゃったので。味は悪くないと思いますよ」

「ありがとうございます…」

「タクシー乗り場まで送りますよ」

「いえ、彼が車で待ってるので」

「では、そこまで送りましょう」

「ありがとうございます」

 高価なプレゼントも嬉しい。元気をくれるから。

 だけど、京野さんからのプレゼントは…甘くて、柔らかくて、あったかくなって、とても幸せになる。

「なんだか本当にお兄さんみたい」

「…やっぱり、健君の方がいいですか?」

「えっ?」

「あ、いえ、弟は幸せ者だな~って」

「…ありがとうございます」

 ああ、どうか永遠にこのままで居られますように…。あわよくば、私の義理のお兄さんになってもらえたら、すごく嬉しいな、なんて、さっきまで、あんなに別れようと思っていたのに、私もひどい女だわ。[newpage]

[chapter:3 クリスマス、本当に?]

 小さい頃から、要領だけは良かった。

 見た目もかなり可愛いし、話術もあった。何よりみんなが頼りにしてくれたって言うのは、あるかも知れない。だから昔から何でも任されてきたし、一人で全部こなしてきた。

 叔父の店を継いで、もう4年になる。いや、まだ4年にしかなっていない。経営は既に赤字で、現実の厳しさを思い知らされている所だ。

 だからだろうか。今まで男なんか全然興味なかったのに、最近なんだかすごく恋しい。

 京野修治とは、幼稚園からの付き合いだ。私のほうが2年上。家が近くて、私のワガママに付き合ってくれる優しい人が彼くらいしかいなかったから、そのままずっと付き合いを続けてる。私がカフェを始めた時も、ウェイターのバイトを引き受けてくれてる。朝早くから夜遅くまで、本当に助かってる。

 好き、だと思う。だけど同時に怖くもあった。全てを見透かされそうなほど、アイツは聡明だったから。だからあたしの気持ちにもとっくに気付いてると思う。それでも何もしてこないのは――きっと――そういう事。

「えっ、いま何て…」

「だから、クビだって言ったの。もうお給料払えないから」

 ある昼下がりに、ついに私は京野に言った。

「この店、一人じゃ回せませんよ」

「契約期間まではやる。そしたらもう畳むわ」

「なら、それまでは居ます」

「もう払えないって言ってるでしょ。明日からは一人で接客するから。ちなみにタダ働きさせるとあたしが捕まるからね」

「…分かりました」

「これ作ったのお前?」

 翌日はクリスマスイブだった。思い上がった男に早速クレームを付けられた。

「金返せよ」

 あたしのケーキ、そんなに不味いの? 叔父さんだって美味しいって言ってくれた。パパだってママだって、みんな美味しいって言ってくれたわ。

「アンタの舌がおかしいんじゃないの?」

「こんなマズいモン出しといてよく言えるな。こんな店とっとと畳んで田舎に帰れよ」

 頭にきて、皿を何枚も割った。

 ほんとは、分かってる。

 あたしはあたしが考えてるよりダメな人間みたい。やっと分かったの。私の周りのみんな、嘘つきだったんだって。私はただ、騙されてただけなんだって。私の人生って、一体何だったんだろ。なんで私だけ、こんな辛い思いをしなきゃいけないの…?

「ニャア」クロすけが窓越しに話しかけてくる。

「近づいちゃダメよ。危ないから」

 猫はいいな。あんなにわがままなのに、ただ可愛いってだけで人間に可愛がってもらえる。あたしも、猫くらい可愛かったらよかったのに。

「あのー…大丈夫ですか?」

 お皿を片付けていた手を止めて見上げると、京野ではない、見知らぬ青年が立っていた。

「邪魔なんだけど」

「手伝います」

 そう言って彼は素手で、割れた皿を掴み始めた。

「ちょっと、お客さんにそんな事させられないわ」

「ほんの少しだけですから」

 ほかの客は、知らんぷりだ。と言っても、3組しかいないが。

「…なんで手伝うのよ」

「だって…泣いてるから…」

 あたしは息をのんだ。あたしには、優しいってどういうことか分からない。助けてくれる人なんかいなかった。いつもあたしが頼られてた。小さい頃から料理だって作ってた。助けることも、助けられることも、よく分からない…。

 だけどこのとき、京野といるときみたいな、ほっとする気持ちになった。思わず、愚痴りたくなる。黙ってることができない性分なのよ。

「あーあ、クリスマスだって言うのにホント何やってんだろ。お金はないし、ケーキも作れないし、彼氏もできないし」

「彼氏、居ないんですか。良かったら僕なりましょうか」

「えっ?」

「冗談ですよ。すみません、不謹慎でした…」

 そいつはきまりの悪そうな顔をしてうつむいた。

 冗談…? ヘンなヤツ。

 なんかもう、クリスマスも、店もどうでも良くなってきちゃった。 [newpage]

 

[chapter:4 義理で隠して]

「同居してんのか!?」

「そうだよー。一緒にお風呂入ったりもするもんねー♪」

「たまにですよ」

「そ、そんな…犯罪だろ?」

「犯罪じゃないよ? だってボク、男だもん」

「えっ、男!? このチビがか!?」

 健と呼ばれた人が、驚いている。このビルのオーナー、[[rb: > ]] [[rb:有礼 > ありのり]]は、少女のように見えるが立派な成人男性で、声優事務所以外にも、不動産斡旋やカウンセリング業など様々な企業を経営しており、ちなみに僕と京野の同居人でもある。

「言っとくけど、僕、チビじゃないよ。君の背が高すぎるだけだろう。それに、チビにチビって言ったらダメだよ」

「男ならなんでメイド服なんか着てんだ」

「かわいーから 似合ってるでしょ?」

「・・・・・・・・・まぁ・・・・・。」

「できたわ! 今度こそ美味しいはず!」

 僕らがスカートを持ってヒラヒラクルクルと回る李さんを見ていると、小湊さんが、大きなガトーショコラを持ってきて、ドンと僕の目の前に置いた。

「食べて」

 今日は、「アマリラ」の定休日なのだが、小湊さんに呼ばれた。京野もいて、ニコニコと笑っていた。どうやら今日は「店長オペラ品評会」らしい。ちなみにオペラというのは、チョコレートを使ったケーキのことだ。

「いや、こんなに食べられないです」

「食えよ」

「いえホント、こういうために手伝ったワケではないので」

「ヒトが泣いてるトコ見てタダで帰れると思うなよ」

「これ刑罰の類いですか!?」

 恐る恐るひと口食べた僕に、すかさず小湊さんが感想を求めてくる。

「どう? 美味しい?」

 この期待を込めた眼差しに、つい人は嘘を吐いてしまうのだろう。

「苦っ」

「何だと!? あたしのオペラが食えねえって言うのか!」

「す、すみません!」

 怒るなら、品評会の意味がないじゃないか…。

「由美さん、しばらくは僕がケーキを作りますよ。その間に、また勉強し直したらいいじゃないですか」

「なんで店長のあたしよりウェイターのアンタの方が上手いわけ…」

「今きっと調子が悪いだけですって。叔父さんからせっかく受け継いだお店なんですから、もう少し頑張ってみましょうよ」

「とか言って常連の女の子狙いだろ」

「え!? や、やだなあもう

 すると、教会から6時を知らせる鐘が鳴った。稽古の時間だ。

「あ、そろそろ帰らないと」

「え? 彼女いないくせにいやに早いわね。観たいテレビでもあんの?」

「明日、収録なんですよ」

「収録? アンタ、テレビ局の人?」

「声優です。地下にスタジオあるじゃないですか」

「彼、いつも家で遅くまで練習してますよ」

 僕は声優としてはまだまだ駆け出しで、いつもみんなの足を引っ張っている。だから、少しでも頑張らないといけないんだ。

 他に小湊さんの作ったガトーショコラ(オペラ?)を少し包んでもらって(って、小湊さんが勝手に包んでただけだけど)、僕はカフェを後にした。ほんのりとした心地よさに、後ろ髪を引かれる。袋の中のケーキの箱を一瞥し、クリスマスの夜のことを思い出した。

 ――僕なら、きっと諦めるだろう。

 下手とか、面と向かって言われたら、分かってはいてもやっぱり落ち込むし、きっと二度と立ち直れない。言う方にとっては何て事なくても、言われた方にとってはたまらないのだ。

 だから、何を言われても堂々と怒れる彼女を見ていると、ちょっと尊敬するし、心を締めつけている焦りとか不安が少しなくなって、ラクになれるんだ。そして気が付いたら、彼女を手伝ってた。

 (ケーキを食べる時間くらいは、サボってもいいかな。)

 にやつきながら外に出ると、佐倉先輩が、カフェの外で待っていた。俺と目が合うと、ばつが悪そうな顔をする。

 誰か待ってるのかな?

「先輩…何してるんですか?」

「あっ、あの…京野さん、いる?」

「いますよ。呼んできましょうか?」

「いっいやっ、い、いいの、いるかどうか聞いただけっ」

 なんだか、いつもの余裕のある先輩とは様子が違う。そもそもこんな所でつっ立ってたら、ファンの誰かに見つかるんじゃないだろうか?

 京野に用があるのなら、何もこんな所で待たなくても…人に聞かれたくないことなのかな?

 そこではたと思いだした。今日がバレンタインデーだということを。

 そう言えば、今年は佐倉先輩がチョコを配っているところを見ていない。配るのをやめたのかと思ったけど…。

 俺は帰るふりをして、少しだけ近くの建物の影で様子を伺うことにした。決して先輩のプライベートを覗き見しようとか、興味津々とか、そんなことはない。一切ない。

 京野が出てきた。外に先輩がいることに気付いたのだろう。

 何か話している。先輩はやはり様子がおかしい。出すか? いや、やはり考えすぎ――ほら、出した!

「みんなに配ってるの」なんて、大きな声で言っているのも聞こえてくる。

 ――配ってない。彼女にとって、渡すのは一人だけだ。それを知ってるのは、彼女一人だけ。彼女一人のなかで、バレンタインを遂行しているんだ。

 いや、一人だけではないかも? もしかしたら俺だけが渡されていないという可能性も…でも、先輩のあんな真剣な顔、初めて見た。

「良いなぁ…」

 もう、覗き見はやめよう。それで、後で京野に感想でも聞こうかな?

 恋は人を嘘つきにさせるって言うけど…天使も堕としてしまうとは、京野修治、恐るべし…。

 そこではっと気づく。

「待てよ、バレンタインって…」

――好きな人に、チョコレートを贈る日。

 自分の持っている袋を見る。

「…まさか、ね」

熱に浮かされながら、ふらふらと岐路に着く。今更意識しても、その真意はもう分からないのだった…。

 [newpage]

 

[chapter:5 季節、めぐりて]

「最近、つけられてる気がするんです」

 相談がある、と言われ、閉店後にカフェのスタッフで佐倉さんの話を聞いていた。小湊さんと、なぜか同席している小松崎が、ちらりと僕を見た。「僕じゃない!」と、ジェスチャーで伝える。確かに僕は佐倉さんの使っているヘアマニキュアの種類まで知っているが、それはストーキングから得た情報ではない。公式の情報なのだ。もちろん家だって知らない。方角なら、いや、番地まではさすがに分からない。きっとおしゃれなマンションなんだろう、とか想像するだけで我慢している。これがどれだけ忍耐の要ることか。もしストーカーがいるのなら、ファンの矜持を思い知らせてやらねばなるまい。表立っては温和に笑いながら、サイフォンを持つ手に力が入った。

「それは大変だ」

「商売敵の可能性もあるんだよね」

 李さんが言った。

「先輩は入沢さんに『X-records(エックスレコーズ)』に誘われてるんだ」

 話によると、スターライト・エンタープライズとX-recordsはちょうと仕事を取り合う関係にあるらしい。スタライはファンを大切にする事務所、X-recordsは売り上げを大切にする事務所。方向性の違いからアンジェラさんはずっと断っているらしいのだが、最近いよいよ嫌がらせじみてきているという。

「僕が弟に言っておいてあげましょうか?」

「助かります。あと…」

「はい?」

 言いにくそうに口をつぐむ彼女に、僕は心配になって急かしてしまう。

「その。…入沢さんからしばらく、私を匿ってもらえませんか?」

 

「…どうしてこうなった」

 僕らのシェアハウス、六角荘。

 いつもは僕、小松崎、そしてたまにオーナーの李さんの三人で囲むテーブルに、場違いな天使が一人いる。薄汚いボロ家が、急に教会に変わってしまったかのようだ。ここを聖域に認定しなくては。

「まぁ、こんなにたくさんいただいて、良いんですか?」

「もちろんです。女性のお口に合うか分かりませんが…」

 もちろん、佐倉さんがここを選んだのは、李さんが所有する物件だからである。それ以上の他意はない。頼られたなんて思ってはならない。絶対に。それでも、どうしてもいつもの10倍は気を張ってしまう。緊張と、周囲への警戒と、あと、佐倉さんのポスターだらけの自室を何としても見られてはならないという緊迫感などで。

 そんな僕の緊張をよそに、彼女は天使のような笑みを浮かべている。

 ――この笑みが、僕だけのものになったらいいのにな。 

 ふと、そんな邪な邪念がよぎり、懸命に首を横に振った。いかんいかん。これじゃ、ストーカーと同じ思考回路だ。 

 これストーカー実は京野でしたというオチなのでは

「ここなら、オレもいますし、京野も信用できる奴ですし、部屋も開いてますから、安心して泊まってってください。オーナー李さんも来れなくて残念って言ってました」

「ありがとう、花房くん」

「それで、『つけられてる』って、具体的にどんな感じなんです?」

 僕がそう尋ねると、佐倉さんはぽつぽつと話し始めた。逃げても逃げても、後をつけてくる人がいると言うこと、ときどき、郵便物を送ったと言われて届いていないときがあると言うこと、そして、ドアノブに白くべたつく何かが付着していたりすること…。

「李さんはなんて言ってるの?」

「早急に引っ越すべきだって。事務所の女子タレントは私だけだから、そのために寮を作るわけにもいかないし、もっとセキュリティのしっかりしたところを探してくれるって」

「じゃあ、それまではここに住んだらいいですよ。ねっ、京野さん

「えっ」

 それって、いつまで? まさか、一週間も二週間も彼女と同居なんて、さすがに身がもたない。

「ホ…ホテルのほうが安全じゃないかな…?」

「京野…まさか、先輩と住むのが嫌とか?」

「えっでっでも、大丈夫なんですかね、噂とか…」

「ここはシェアハウスではあっても、一応あのビルと同じオーナーのものだし、スタライの寮ってことになってるから、問題はないと思うよ」

 そうだ。確かにここは李さんの不動産で、スタライの寮…と言っても小松崎が住んでいるだけだが、寮の「予定」なのだ。むしろこの場で、場違いなのは僕の方である。とは言えまさか小松崎と二人きりで住まわせるわけには絶対にいかない。

「それにいっそ、シェアハウスに住んでることを開き直っちゃえばいいと思うの」

「それって…つまり?」

「ここでの生活を配信しようと思って」

 は?

「あっ、京野さんは映らないようにしますから…」

「京野は家政夫ってことにしとけば?」

「何、勝手に話進めてるんですか!?」

 ここでの生活を配信? 僕が家政夫?

 いや、家政夫になる事に異議はないが、そうなっては僕は「ファン」ではいられなくなってしまうじゃないか!

 そのあとに、もしファンである事がバレたら? 僕こそストーカーとして、捕まってしまう! そうしたらもう二度と、佐倉さんに口をきいてもらえなくなる…。

「どうした? 青い顔して」

「ごめんなさい。先走りすぎました…」

 とんでもない。一番わがままを言っているのは僕だ。

 僕は慌てて首を振る。そうだ。僕に彼女への好意があるからいけないんだ。好意さえなければ、丸く収まるんだ。

 ――隠し通せばいいだけのこと。

 今までと同じだ。

 絶対に、悟られてはならない。

 そんなの、いつもやっている事じゃないか。

 「オトナ」なんだ。わきまえられる。

 公私を混同してはならない――。

「いえ、突然の事で理解が追い付かなかったんですが、僕に異論はありませんよ」

「やったぁ、では、これからよろしくお願いしますね!」

 ああ、神様。

 どうか彼女を傷つける輩を、すべて殺してください。

 たとえその中に、僕が入ったとしても。


「お疲れ様。ドミトリーの用意できたよ」

 彼女と同居して3日。超スピードで、李さんは部屋の用意を整えた。

 まだ慣れないまま、あっという間に過ぎてしまった。もう、彼女が吐いた息が部屋に充満することも、それを思い切り吸うこともできないと思うと、ちょっぴり寂しい。

 引っ越しにさらに1日掛かったが、それでも本格的に春が訪れる前に

引っ越しシーズンで割高になる前にそれらは完了した。

割安なところに頼むことができたらしい。

 僕と小松崎と李さんでぞろぞろと新居に向かう。さながら姫を守る護衛騎士のようだった(一人、まるで姫みたいな服を着た成人男性は混じっていたが…)。

 外はまだ

「ここまでで大丈夫です」

 佐倉さんはロビーで踵を返す。

「また困ったことがあったら、すぐに言うんだよ。きみはうちで最大で唯一の売れっ子なんだから」

「まあ、それは他の子たちがかわいそうだわ」

「お褒めに預かり光栄です。これからもこのご恩を返すべく、精進します」

 李さんが、娘でも見るような目で優しく笑った。

 ――李さんって、独身だよな?

 この二人の仲は、単なる雇用主とタレントの域を超えている気がする。

 世の中にはプロデューサーとアイドルの恋愛ものなんて言うものがごまんとあるし、まさか、まさかまさか――

「京野さん? 聞いてます?」

 ふいに彼女に名を呼ばれ、僕は自分がぼんやりしていた事に気が付いた。

 気付けばもう別れの挨拶も終わり、小松崎と李さんは外に出てしまっていた。

「あっ、なんでしょう?」

 僕が、何か用があって残ったと思ったのかな。実際は、妄想に嫉妬していただけなんて、口が裂けても言えないが。

「何かお礼」

「うち、寄って行きます? 何かお礼をさせてください」

 天使の囁きに、身がこわばる。

「ま、まさか」

 咄嗟に口に出てから、後悔した。これじゃ拒否しているみたいじゃないか。

「も、もちろん、お邪魔したいのは山々ですが、噂になっては大変でしょう」

「…良いですよ」

 え?

 聞き取れなかった。僕は間抜けな顔で問い返す。

「京野さんとなら…噂になっても、良いですよ」

 彼女の頬は、さきほどの入浴のせいで、いつもの2倍くらい赤かった。

 僕の頭の中はいつもの10割増しで真っ白だった。返事に――主に、YESと言うのを必死で堪えようとしているのに苦戦していると、ふいに彼女はクスリと笑った。

「ふふふ、冗談です。今日はエイプリルフールですよ」

「ああ、何だ。びっくりした」

「本当に?」

「しましたよ」

 ふふふ、と笑ってから、彼女はぺこりとお辞儀をして、玄関へ向かっていった。途中、くるりと振り返って、

「お礼、考えておいてくださいね」

 と言うのも忘れずに。

 ――僕は考えを改めねばならないかもしれない。もしかしたら、彼女は悪魔なのかも――天使の顔をした、悪魔なのかもしれないと。

 耳まで赤く染まった

興奮した僕に、帰りの夜風は興奮を宥めてくれるのにはちょうど良かった。

長い帰り道はまったく苦ではなかった。

 春は何度でも訪れる。

 

 駅前を歩いていると、京野さんと二人の女の人が連れ立って歩いているのが見えた。いつものラフな私服ではなく、なんだかとてもお洒落な着こなしをしている。

もしかして、デートなのかしら…。でも、女性が二人いるし…修羅場とか…? 等と邪推しながら眺めていたら、彼が私に気付いて、近付いてきた。

「こんにちは、暖かくなりましたね」

「こんにちは。きょうは…お休みですか?」

「ええ、コミケなので」

 一瞬、耳を疑った。

「え?」

「あっ、僕、オタクなんですよ。そうだ、杉田さん、こちら、アンジェラさんといって、プロの声優さんです」

 杉田と呼ばれた野暮ったい女の子は、頬を染めながら答えた。心なしか、目が腫れている。

「わ、私そんな…こんな方とお知り合いだなんて聞いてません」

「彼女は女優さんになりたいそうです。アンジェラさんもたまに女優業されてますよね」

「杉田さん、良かったら何かお話しますか? 私、今日空いてますよ」

「ならこのまま”六角荘”に来てもらえば良いじゃない」と、長髪の女性が言った。

 どうやら私は、京野さんの住むお家にお邪魔することになったみたいだ――。

「でさ、修羅場になっちゃって」

「昔の話じゃないですか」

 道中、小湊さんが、京野さんの昔話などを聞かせてくれた。昔はとてもヤンチャで、二股して騒動になったことや、テニス部だったことなどを話してくれた。今日は彼の新しい一面がたくさん見れて嬉しかった。でも同時に、小湊さんに、「私の方が京野のことは知っている」と、牽制されているようにも感じた。

「杉田さん、お化粧はしないの?」ずっとうつむいている彼女に私が聞いた。「女優さんになりたいなら、お化粧したほうが良いんじゃないかしら」

「お化粧って、なんだか嘘ついてるみたいで嫌いです」

「ふふっ、そうね。だけど、バレなきゃいいのよ」

「そういうもんですかぁ」

「そういうもんでーす。けど、無理に周りと同じ顔にしなくてもいいのよ。あなたが綺麗だと思う顔にすればね」

 世の中は、優れた者が勝つ。

 優れていなければ、嘘をつけばいい。

 嘘がばれてしまった時は、よっぽどのことがない限り、もう、泣き寝入りするしかないのだ。優しい人間など、ごく一部しかいない。

 シェアハウス”六角荘”に着いてからも、私は、発声の仕方などを教えてあげた。彼女は女優志望だったが、震災で家を失くし、そのまま上京して来たのだそうだ。素直で、謙虚で、きっと夢を叶えられるだろうと思えた。

「今日は、本当にありがとうございました」

「気にしないで。オーナーが帰ってきたら住む所を紹介してもらおう。李さんは芸能事務所もやってるし、部屋を貸したりもしてるんだ。事情を話せば、きっと力になってくれると思うよ」

「ありがとうございます、本当に…私…政府にも見捨てられて…京野さんがいなかったら…私…」

「無理はしないでね。たまにはまた遊ぼうね」

「は、はい…」

 彼女が真っ赤になって答えた。

 ああ、京野さん。

 なんて罪な人なの。

 私もきっと、その優しさを与える相手の一人でしかないんだわ。

 私を真剣に見ては、くれないんだわ。

「アンジェラさんも…今日は本当にありがとうございました」

「こちらこそ、楽しかったです」

「いえそんな、ちょっと強引だったかも知れません。何かお礼をさせて頂かないと」

「そんな、気を遣わないでください」

「そういう訳にはいきません。是非。何が良いでしょう?」

「なら、お付き合いしてもらえませんか?」

「えっ?」

「ふふふ、冗談です。今日はエイプリルフールですよ。じゃあいつか、お願い事が出来たらまた、言いますね」

「ああ、何だ。びっくりした。ええ、お待ちしています」

 嘘、じゃない。

 あなたが、優しいから。

 だけどその優しさが、憎い時もある。

 優しくしてほしいんじゃないの。

 私を見て欲しいの。

 だけど私は、あなたに釣り合う資格はないから。

 だから、嘘しかつけない。[newpage]


 私がふうと溜め息をついて部屋のドアを開ける。鍵はかかっていなかった。

「――? 鍵、かけなかったっけ」

 引っ越し業者が、かけ忘れたのかな?

 そう思って部屋の中に入ると――。

「ねぇ、どうして振り向いてくれないの?」

 バタンと閉めたドアのほうから、低い男の声がする。

「――誰か」

「ねえ、僕を見てよ。」

 口を押さえられ、何もしゃべれなくなる。

「見てくれないなら、僕しか見れなくさせてあげる、僕の天使」

 手に持っていたのは、まぎれもない凶器だった。

「本当に天にのぼろう。僕と一緒にね」

「だ、誰か、助けてっ…!」


 窓ガラスの割れる音がする。

 男といっしょになってそちらを見ると、京野さんが煉瓦で窓を割っていた。

「――え? ここ、3階…」

「佐倉さんに手を出したのはお前か」

恥を知れ

オタクではない、犯罪者だ



「あのさ、邪魔なんだけど。」

 声のしたほうを向くと、入谷くんがいた。


 なんだか、くさい。

「ここがあんたの新しい部屋か」

 聞き覚えのある声がして、ふり返る。

 そこには、入谷君がいた。

「――入谷君? ど…どうして?」

「勘違いするなよ。ストーカーは俺じゃねえ。んなキモい事はしねえ。話をしに来た」

「話…って?」

「――俺達の事さ」

 入谷くんは煙草をくわえたまま、ため息をついた。


[chapter:6 秋のご褒美]

「あっ」

 ある秋の夜。収録が終わってスタジオから上がって来ると、仕事を終えた小湊さんとはち合わせた。

 小湊さんを見るだけで、胸が高鳴る。もう秋も終わるというのに、彼女は半袖のシャツ一枚だった。寒くないのだろうか?

 気持ちを悟られないように、ぎこちなく挨拶する。

「お、お疲れさまで~す」

「ねえ今度またケーキ食べに来てよ。あれからかなり上達したのよ」

「え? ホントですか?」

「何でそんなに驚くのよ?」

「ス、スミマセン」

「定休日はいつも練習してるから」

「凄いですね」

「もうメレンゲはマスターしたわ。パンケーキは泡立てすぎないのがコツで…ねぇ、ちょっと、大丈夫?」

「あっ、すみません。ちょっと寝不足で」

 何日も寝ずに台詞の練習をしていたせいで、収録が終わってから疲れが出てしまったらしい。僕はよろけて壁にもたれてしまった。

「無茶しないでよ。今日はもう早く寝なさい」

「ハハハ、なんだかお母さんみたいですね」

「誰が年増だ! へくちっ」

「す、スミマセン! そうだ、これ」

「何よ」

 僕は着ていたジャケットを脱ぎ、小湊さんに手渡す。

「そんな恰好じゃ、風邪引きますよ」

「余計なお世話よ」

「す、すみません…」

 小湊さんにはああ言われたけど、休んでなんかいられない。もう少しだけ頑張ろう。僕は、落ちこぼれなんだから、人の何倍も努力しなければ、ついて行けないんだ。

「あ、佐倉先輩! オリコンチャート8位、おめでとうございます!」

「ありがとう」

 ある日の収録後、同じ事務所の先輩の”アンジェラ”こと佐倉先輩に挨拶した。彼女は同人上がりの声優で、そのときのホームネームをそのまま使っている。天性の声質で多くのファンを獲得している。事務所の稼ぎ頭だ。ちなみに、僕のハウスメイト、京野修治の好きな人でもある。

「小松崎くん、最近どう? ちゃんと休まなきゃ、ダメだよ」

「…分かってます」

「なら良し。そうだ、良かったら今度、お話できないかなぁ」

 彼女はこうして定期的に、事務所の後輩と”お話”をするのだ。それは、「相談に乗るよ」と直接言うと遠慮されてしまうからで、要するに、相談に乗ってくれるのだ。時に足りない部分の指導をしてくれたりもする。ファンもたくさんいるし、実力もあり、そして後輩想いの、本当に「天使」のような人だと思う。当然、僕だって恋い焦がれることもあるが、さすがに高嶺の花だ。

「さあ、できたわ。食べて」

 ある水曜日。アマリラを訪ねた僕を、小湊さんが出迎えた。今日はアマリラへ行くと言ったら、修治の奴、気を利かせて今日はアマリラへは行かないと言った。緊張するので、逆に二人きりにしないでほしいのだが…。

 僕がプリンをスプーンでひと口食べる。前のようなぱさつきはないようだ。

「あっ、美味しいですよ」

「そうでしょうよ。これでプリンはクリアね。」

 僕は彼女が料理本とにらめっこしながら、ウンウンとうなっている所を眺めていた。細かい仕事は、苦手のようだ。それでも、「覚えちゃえばこっちのもんよ」と息巻いている。と言うか今まで、ろくに勉強もせずに、お店を始めたらしい。そりゃあ、お客は来ないわけだ。

「にしてもさぁ、声優なんて、凄くない? 普通、なかなかなれないでしょ」

「そんな、僕なんか全然ダメで…」

「あのねー、人が褒めてんだから素直に受け取りなさいよ」

「す、すみません。」

「今日は…、何で来てくれたの?」彼女が声を小さくして聞いた。

「え、何でって…えっと…時間が…あったから?」

「何それ! ばかにしてんの!?」

「い、いや、もちろん来たいんですけど、仕事とか、稽古とかあって…」

「あんたさ、稽古し過ぎなんじゃないの? こないだ、寝てないって言ってたじゃん。寝ないでまで稽古するなんて、病的だよ」

「…僕もそう思います。だから佐倉先輩も、休めって。僕の家、両親ともに芸能人なんです。兄も…。しかもみんな、すごくレベルが高くて…僕、落ちこぼれなんです。僕もがんばらなきゃ、でないと、置いていかれる、って思うと、不安でどのみち眠れないんですよ」

 そうだ、僕はおかしい…このままでは、長生きできない。分かってはいるけど、どこからともなくやって来る焦燥感が、僕を苦しめるのだ。

「ねえ、そろそろ、マカロンにも挑戦してみようと思ってんだ」

「マカロン? それもお菓子ですか?」

「そう、最高難易度のお菓子よ。上手く作れたら食べさせてあげるわ。…ねえ、また来てくれる?」

 小湊さんといる時、僕はすごく安心する。ずっとこのままでいたいと思うくらいに。だけど、向こうはどう思っているんだろう? 僕のこと、「ヘンな奴」とか、「男のくせに、軟弱なヤツ」とか、思われてるんじゃないだろうか。

「もちろん」

「ほんとに? 良かった」

 彼女が、安堵した表情を見せた。胸がきゅっとしめつけられるのを感じる。

 ――こんな顔、初めて見た。

 僕のこと――少なからず、あてにしてくれてるのかな。

 期待しちゃっても、良いのかな…。

「大丈夫? 小松崎くん」

「は、はい」

 佐倉先輩との「個人授業」の日。上の空になっていた僕を、先輩が心配してくれた。

「やっぱり、調子悪い? 今度にしようか」

「いや、違うんです。今ちょっと別の事考えてて」

「そう? それなら良いけど腹筋だけじゃなくて、背筋もした方がいいよって話は、聞いてた?」

「聞いてました。あの、先輩はイの[[rb: > くち]]ってどうやってます?」

「イの口?」

「はい、母音の…。養成所ではウと同じ形って言われたんですけど、どうしても上手く発声できなくて」

「えっ? 私口の形意識した事ないや」

「ええ??」

「そっか、養成所ってそういう事もやるんだね。私も養成所行こうかなあ」

「いや、先輩は完璧ですから行く必要ないですよ」

 練習していないのに、出来るのか、この人。恐ろしい人だ…。

「力になれなくてゴメン…でも、そんな事まで考えて演ってるなんて、やっぱり小松崎君はスゴイなあ」

「えっ? そんな事ないですよ」

「凄いよ。前から思ってたけど、小松崎君って、”努力の天才”だよね」

「…そんな風に言われたの、初めてです」

 先輩に、褒められた。

 それって、自信を持って良い、ってこと?

 もしかしたら先輩は、イの口のことも、滑舌のことも、きっと全部知っているのかも知れない。

 だけど、僕に自信を持たせるために、嘘をついているのかもしれないな。それでも…先輩のその気持ちが嬉しい、と思った。

「明日、オーディションだね。今日はしっかり休んで、悔いのないようにね」

「…はい!」

 オーディションの結果は、合格だった。初めての主役だった。

「小湊さん! 僕、今度のアニメの主役のオーディションに受かってしまいました!」

「フーン」

 僕たちはふたたび、アマリラで、小湊さんと「二人ケーキ品評会」をしていた。その「自分以外には興味ありません」みたいな態度…素敵です…

「じゃあ、ご褒美に彼氏にしてあげよっか」

「フェ!?」

「あら前、言ってたじゃない。彼氏になりたいって」

「あ…あれは…その…”僕も彼女いないんで落ち込まないでください”的な意味で」

「何よ!? あたしじゃダメなの!?」

「そ、そうじゃないですけど、その…資格があるのかなって」

「え? あたしに彼女になる資格?」

「違います、逆ですって」

「男っぽいのは、あたし一人で充分なのよ。あんたが手伝ってくれたとき…、嬉しかった。そんだけ」

 彼女の頬が火照り、耳が赤くなってた。

 もう冬の入り口だと言うのに、まだ半袖でいる。寒いのかな。それとも、別の理由で…?

「あ、大丈夫? また寝てないの?」

「いや、違います、嬉しさで目まいが………」

「ホント、アンタって、軟弱ねー」

 また彼女が笑う。

 彼女の笑顔に励まされ、僕は彼女を助ける。

 僕たち、支え合えたら、無敵かも知れないね。[newpage]

[chapter:7 嘘が、つけない]

 好きな人が弟の恋人だと分かり、流れとは言えオタクと言う事もばれ、あげくの果てに小湊さんに黒歴史をバラされてしまった僕の気持ちが分かる? 彼女にとって僕は「近所のカフェのウェイター」から「地味で中二なオタク」になってしまった。恥ずかしすぎて、あれからまともに香織さんと話していない。

 いや、しかし、逆にこれはチャンスかも知れない。もし彼女が僕の想像していた彼女そのものでなければ、香織さんは「アイドルの顔」を保つために僕を避けるようになる。そうなればそれまでの人だと言うことで、諦めもつくのではないか…?

そんなことを日々悶々と考えているうちに、また春がやってきた。

「顔さえ似てなきゃ、野田の野郎だって紹介したりしなかったろうに」

 カフェに差し込む影が、随分短くなってきた。もう5時だというのに、外はまだ夕焼けがまぶしく輝いている。これから少しずつ空気が湿気を帯び、気だるい梅雨がやって来るのだろう。

「そりゃ、悪かったね。顔が似てて」

「『失踪宣告』まで、した後だったんだぞ」

「って事は、君の方は、僕の存在を知っていたんだね」

「爺ちゃんが教えてくれたんだ」

 ――僕は、父を知らない。どんな人で、何をしていた人かも。母は、父の話はしなかった。僕だって、知りたくなんかなかった。まさか母親が夜逃げしていて、腹違いの弟までいたなんて。その母も、今はもういない。

「家はお前にやる」

「君の育った家だろう?」

「だからだよ。話は終わりだ」

 ガタリと、椅子から立ち上がる健とともに、煙草の匂いが、ふわっと広がった。

 立ち去り際に彼はこう言った。

「一つ言っとくけどよ、父親を取られたなんて思ってんだったら、そりゃお門違いだぜ。あんな奴、いなくて正解だし、夜逃げしたお前の母ちゃんは、正しい事をした。まあ、育ち方を見りゃ、分かるだろうが」

「君だって、歌手として成功しているじゃないか」

「……人の怒りや憎しみに、葉っぱ掛けてるだけさ」

 煙草に火を付けて、彼は言った。

 帰る背中は、何かで張り裂けそうにも見えた。

「お洒落なお店ですね」

「一度、来てみたかったの。でも、踊れる人ってなかなかいなくて…」

 “一人で行きづらいお店があるので付いて来てほしい”。それが、彼女の望む「お礼」だった。僕にしてみれば、デート以外の何物でもない。店内はうす暗く、レトロな雰囲気を再現していた。言わば「大人のテーマパーク」のようなものだろう。雑食オタクの僕は、たまたま”社交ダンスの漫画”を読んでいたので、踊れないこともないのも幸いした。

「健さんは…」

「彼とは別れたんです」

「えっ!?」

 思わず大きな声を出してしまった。

「またまた。今日はエイプリルフール…」

「彼、私を移籍させようとしていて。私は、”スターライト”から移籍する気はないの。李さんは、私の恩人だから」

 香織さんは、自分の過去のことを話してくれた。言葉の暴力やネグレクトを受けて、家出したこと。行政機関は、証拠不十分で保護してくれなかったこと。オーディションに落ちたけれど、李さんに拾われて、タダで住み処を貸してくれたこと。彼女の人生を、僕は初めて知り、共有した。心が、その嬉しさと、そして憐憫で満たされ、僕はなぜか、酔いが回ってしまったかのように、クラクラした。

 僕たちは、踊り、飲み、喋り、そして食事をする。生まれて、生きて、こんなに楽しいひと時を僕が過ごせるとは、思いもよらなかった。きっと、人生で一番楽しい時間だろう。

「いま、私が、全部『嘘でした』と言っても、あなたは笑って許してくれます?」

「嘘だったんですか? とてもリアルに聞こえましたけど」

「…嘘じゃ、ないです。…ただ、重すぎるから、みんな、嘘だと思いたがる。めんどくさがって」

「嘘にしないで」

 僕と彼女だけの世界。くるくると回って、踊り続けた。

「僕にだけは、嘘にしなくていい。全部、受け止めるから」

「…京野、さん…」

 彼女の目から、一粒の雫が零れたのが見えた。

「天使の涙が見れたんだ、僕は一生幸運かな」

「私、天使なんかじゃないですよ。ただの恵まれない女の子です」

「天使ですよ。ほら、こんなにも美しい」

 人差し指で涙袋をなぞると、彼女は人が変わったみたいに笑った。

「なんちゃって。嘘ですよ、京野さん」

「え? どこまでが?」

「ナイショです」

 彼女は口に指を当て、今までの涙が嘘のように明るく笑った。

 タクシーを降り、下祗園の駅に着いても、僕はまだ、余韻が抜け切らなかった。また明日から、僕たちは、ウェイターとその客、アイドルとそのファンでしかない。

「楽しかったですか?」香織さんが訊いた。

「ええ、とても」

「楽しんでもらえて良かった。どんな所がいいかって考えちゃった」

「あなたへのお礼なんですから、そんなに気を遣わなくてもいいのに」

「でも…せっかくなら、お互いに楽しみたいじゃないですか?」

「あなたと一緒なら、どこでも楽しいですよ」

「…またそんな、お上手ですね。騙されませんよ、今日は四月一日じゃないですか」

 遠くで、0時の鐘が鳴るのが聞こえた。

「…僕は本気ですよ」

 香織さんがはっとして、僕を見つめる。

「…京野さん。もう、エイプリルフールは、過ぎましたよ」

「…本当は、ずっと好きでした。ラジオで聞いた時から。貴女の優しさ、教養の深さの虜でした。白状します。あなたを追って、あのカフェにいました。僕はただの、”ガチ恋オタク”です…軽蔑します、よね」

 一分前なら笑って誤魔化せた言葉が、今はただ彼女に重たくのし掛かっている。

 言わなければ永遠に、彼女と「大人同士の付き合い」で居られただろう。だけど、これでもう本当にただの、”アイドルとただのファン”だ。

 彼女はきっと、「ごめんなさい」と云うだろう。そして天使の微笑みで、「これからも応援して下さい」と――

「――私も、嘘じゃないです。あなたが好き」

 香織さんは、切なげな瞳で、僕を見上げた。僕もはっとして、彼女を見つめる。

「私も、あなたの優しさが――ずっと前から、好きでした」

「本当ですか? 嘘ではなくて?」

「嘘ではないですよ、もう、京野さん、しつこい」

――”嘘”は、時に人を救い、時に生き残る術となる、なくてはならないものだ。また、明日から――僕はあなたの好きな僕になる。だから、明日から、あなたも僕の好きなあなたでいて欲しい。だけど――嘘と本音の入り混じる、この黄昏時だけ――本当の『本音』を、話させて欲しい。弱い自分で、居させて欲しい。あなたに、触れさせて欲しい、ねえ、いいかな? 僕の「天使」さん――[newpage]

[chapter:8エピローグ]

[[rb:入沢 > いりさわ]] 健が突然飛び出して、車に轢かれそうな僕を助けたのは、五月下旬のことだった。奴ら、とうとう僕まで狙い出したらしい。

「助かったよ、ありがとう」

「猫が…」

「え?」

「お前んとこの猫がうるせぇから相手してやってたら、たまたまお前がいただけだ。運が良かったな」

「運だけは良くてね、昔から。だからこうして、やっていけてる」

「俺にも分けてほしいもんだ」

 彼は煙草に火をつけて吸い始め、咳払いをする。

「煙草は体に悪いよ。電子タバコにしたらどうだい」

「そんなパチモン、使えるかよ。」

旅に出ようと思ってさ。自分探しみたいなやつよ」

「その年で」

「正確にゃ、”限界探し”だな。色々やってみて、無理なら、相応の配慮をしてくれる奴を探す」

「なるほど、平和な社会というジグソーのピースになる覚悟が出来たんだね。」

彼の発言に僕が笑うと、足元のクロすけが尻尾を振りだした。退屈しているのだろうか。入沢も退屈してきたようだ。膝を叩いてから、言った。

「じゃ、行くわ。ああ、引き抜きのことはもう心配しなくていい。俺が話をつけた」

「話をつけたって? 買収でもしたの?」

「ま、分配の割合をちっといじっただけだ」

 入沢は仰々しく立ち上がり、暇を取ろうとした。

「入沢君。所属事務所はスターライト・エンタープライズという道もあるのだから、考えておいてね」

 僕は、眉を下げて言う。これは本気の提案だ。

「こんな弱小事務所、こっちから願い下げだぜ」

「知ってるよ、君の性格は業界から嫌われてるって」

「救いの神にでもなったつもりか? チビの癖に」

「チビじゃないよ。それに、チビにチビって言ったらいけないよ」

「へいへい、分かったよ、カミサマに説教してもらえるなんて、俺も随分運がいいぜ」

 ――電子タバコは悪くないらしいよ。

 僕が云うと片手を振って、彼は旅立った。この後、結局彼はスターライト・エンタープライズに所属すること、小湊由美は僕らの仕事を手伝い、演出家として名を馳せることになること、そして京野は僕の代わりにスターライト・エンタープライズの社長に就任し、僕は本格的に執筆業に専念することなどは、この頃の僕らはまだ、知る由もなかった。

 まあ、僕らの旅の顛末は、また別の機会に譲るとして、ひとまずこの短い季節をめぐる物語の幕を下ろそう。

 大丈夫、僕らならきっと、どんな困難にも立ち向かって行けるさ。

 

<fin>